さすらい駅わすれもの室

今井雅子(脚本家)

さすらい駅わすれもの室「迷子の音符たち」(脚本)

さすらい駅わすれもの室

今井雅子(脚本家)

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さすらい駅わすれもの室
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〇田舎の線路
  「さすらい駅わすれもの室」は
  1話完結のオムニバス作品です。
  お好きなエピソードからお読みください。

〇森の中の駅
  さすらい駅の片隅に、ひっそりと佇む、

〇田舎駅の改札
  わすれもの室。
  ここがわたしの仕事場です。

〇古書店
  ここでは、ありとあらゆるわすれものが
  持ち主が現れるのを待っています。

〇コンビニの店内
  傘も鞄も百円で買える時代、

〇田舎駅の改札
  わすれものを取りに来る人は、減るばかり。
  多くの人たちは、

〇田舎駅の改札
  どこかに何かをわすれたことさえ

〇渋谷のスクランブル交差点
  わすれてしまっています。
  だから私は思うのです。
  ここに来る人は幸せだ、と。

〇田舎駅の改札
  駅に舞い戻り、
  窓口のわたしに説明し、書類に記入する、
  そんな手間をかけてまで取り戻したいものがあるのですから。

〇田舎駅の改札
女性「わすれもの、ありませんでしたか」
  彼女が息せき切ってわすれもの室に駆け込んできたのは、 ある春の日の昼下がりのことでした。

〇古書店
女性「楽譜です。ピアノの楽譜です!」
  さくら色のパンプスの足音を響かせながら、青ざめた顔で彼女はそう言いました。
  わたしが返事をするより先に、彼女は窓口の横の扉を抜け、
  わすれものが並ぶ棚を引っかき回しました。
駅の人「勝手に入られては困ります」
  とわたしが止めると、
女性「楽譜がないと困るんです!リサイタルの練習ができないんです!」
  と彼女は尖った声で返してきました。
  こんなときは、何を言っても無駄です。
  わすれもののことで頭がいっぱいになっている人は、思いやりさえもわすれてしまうのです。

〇豪華な客間
  プロの音楽家なのでしょうか。
  彼女が弾くピアノは、どんな音を奏でるのでしょう。
  きりきりして苛立った、ケンカしているような音でしょうか。

〇古書店
駅の人「お探しの楽譜について、くわしく教えてください」
駅の人「手書きの楽譜ですか。用紙はどんな色ですか。封筒に入っていますか」
  わたしの声は、やはり彼女の耳には届いていない様子でした。

〇暗い廊下
駅の人「危ないですから、わたしがお探しします」
  わたしが止めるのも聞かず、彼女は、わすれものの山をかき分け、わすれもの室の奥へ奥へとずんずん入って行きます。
駅の人「われものやこわれものもありますから」
駅の人「あ、危ない!」

〇城のゴミ捨て場
女性「あっ!」
  と小さな悲鳴を上げてよろめいたかと思うと、
  ジャーンと和音が鳴り響きました。
  床に置かれていたおもちゃのピアノを蹴っ飛ばしたようです。
  やれやれとわたしはため息をつきました。

〇暗い廊下
女性「あれ、どうしてこんなところに?」
  彼女は、いくぶん冷静さを取り戻した声で、 さくら色のパンプスの足元にある小さなピアノを見つめました。
  そこは、わすれもの室の突き当たりの壁の手前。
  入口から離れた奥まった場所に置かれているということは、 もう何年も持ち主が現れていないことを意味します。
  正確には、それはわすれものではなく、捨てられていたものでした。

〇美しい草原
  そのピアノのことは、よく覚えています。
  さすらい駅で働くようになって間もない頃、

〇田舎の線路
  わたしが線路の脇の草むらから拾い上げたのです。

〇暗い廊下
女性「このピアノ......子どもの頃に遊んだピアノなんです」
  小さなピアノの前にかがみこんで、彼女は言いました。
女性「本物のピアノを買ってもらって、悪い癖がつかないようにって、捨てられたんです」

〇新興住宅
  ゴミに出されたおもちゃのピアノは、誰かの手によって駅まで運ばれ、

〇森の中の駅
  線路脇に捨てられ、わたしの手に拾われ、

〇田舎駅の改札
  わすれもの室にやって来ました。

〇暗い廊下
  そのピアノが、何十年かのときを経て、最初の持ち主と向き合っているのでした。
  彼女はおもちゃのピアノの小さな鍵盤に、そっと指をのせました。
  かつて遊んだ頃より、ずっと長くなった指。小さくなったピアノ。
  ひさしぶり、と遠慮がちにあいさつを交わすように、小さな音が鳴りました。その途端、

〇花模様
  ほとばしるようにメロディがあふれだしました。
  十本の指は踊るように黒と白の鍵盤を跳ね回ります。
  まるで鍵盤が二倍三倍にふえたようです。
  彼女は先ほどまでとは別人のように生き生きとして、
  埃をかぶっていたピアノは、
  永い眠りから覚めたように、実に楽しげに歌っています。

〇劇場の舞台

〇劇場の座席
  とつぜん開かれたピアノリサイタルに、たったひとりの観客であるわたしは、惜しみない拍手を贈りました。

〇古書店
女性「このピアノ、持って帰ってもいいですか」
駅の人「もちろんです。あなたのものであることは、わたしが証明します」
女性「ありがとうございます」
  小さなピアノを抱きしめる彼女の顔は、明るく晴れやかでした。
  窓から射し込む光が、再会を祝福するように、彼女とピアノをやさしく照らします。

〇美しい草原
  ああ、春だ、とわたしは思いました。

〇古書店
駅の人「楽譜が見つかったら、連絡を差し上げましょうか」
女性「その必要はありません」
  彼女はきっぱりと言いました。
女性「だって、嘘だったんです」
駅の人「嘘?」
  わたしは思わず聞き返しました。
駅の人「嘘って......どういうことですか」
女性「リサイタルが近いのに、なかなか思うように弾けなくて・・・だから、楽譜をなくして練習できなかったことにしようって」
女性「必死に探しているふりをしていたんです。 嘘をついて、ごめんなさい」
  わたしは、彼女に何と声をかけていいのか、わかりませんでした。 どんな顔をしていいのかも、わかりませんでした。
  怒ることも、悲しむことも、違うような気がしました。 ただ、

〇劇場の座席
  さっきまでの浮き立つようなうれしさがしぼんでしまうのが、
  淋しいだけでした。

〇古書店
駅の人「いいえ、あなたは、嘘なんかついていません」
  わたしは、彼女を真っ直ぐに見て、言いました。
女性「え?」
駅の人「あなたがわすれものをしていたのは本当のことですから」
女性「・・・?」
  わたしは受け取りの書類を一枚取り出し、 わすれものの品名の欄に「楽譜」と書き入れました。
  楽譜の楽(がく)、楽しいという文字に多少力を込めて。
女性「・・・」
駅の人「良かったです。わすれものが見つかって。 きっと、すばらしいリサイタルになりますね」
  わたしは彼女とおもちゃのピアノを見て、言いました。
女性「ええ......きっと」
  うなずく彼女の目から、きれいな涙がひとすじ滴り落ちました。
  受け取りのサインに記された名前を見て、わたしは、はっとなりました。
  音楽の世界に疎いわたしですら見覚えのある有名なピアニストの名前でした。
  そのとき、カレンダーの今日の日付に目が留まりました。
  年に一度、嘘をつくことが許されるという日。
  これからこの日がめぐるたび、わたしは思い出すことになりそうです。

〇田舎駅の改札
  このわすれもの室を明るい音色が満たした昼下がりのことを。

〇花模様

次のエピソード:さすらい駅わすれもの室「指輪の春」

コメント

  • 自分もピアノの発表会はいつも逃げたくなりました。でも、不思議なことに終わるとまた弾きたくなる。その繰り返しです。訪れてみたくなる駅の忘れ物室です。シリーズが楽しみ。

  • 待ってました!背景など巧みに使いわけているところはさすがです。他のシリーズも楽しみにしています^_^

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