マエノスベテ

たくひあい

エピソード1(脚本)

マエノスベテ

たくひあい

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〇雪に覆われた田舎駅
  朝から冷たい風が唸りを上げていた。
  早く帰宅したいと逸る想いで、「家」へと携帯電話をかける気持ちと裏腹に、通話はぶちりと断ち切られた。
  この携帯電話は、暴力に合っている。
  芸能人の画像流出とかも、まぁ要はそれなのだ。
  。
  それにしたって、市民の携帯にまでこうも露骨に幅広い支障が出始めたのは、やはりスマートフォンの普及と同時期だと思う。
  「なぜ強引にスマホを流行らせたか想像がつくってものだ」と、家主は言っていたっけ
  低めのブーツの足が雪に乗る。しょうがない気持ちで頭のなかで懐かしいMIDIを再生していた。
  さく、さく、さく、さく。
  雪を踏み鳴らしながら、曲を思い出す。
  この「タイトルがない曲」は、ずいぶんと入院していたままの「彼女」が作ったものだった。
  繊細なピアノ、荒くれたマリンバ。
  吐く息が白い。魂もこんな色だろうか。
  早く帰宅したいものだ。様々なことを想いながらも、心にはずしりとのし掛かるものがあった。

〇雪山の森の中
  玄関の戸を開けようと鍵を構えると、同じように戸の前に立つ姿が見えた。
  まだ若い婦人だった。
瑞「あの・・・・・・どうかされましたか、家主に用ですか」
  婦人はぼくを怪しんでいるらしく眉を寄せるに留めた。
瑞「ぼくも今から行くのですが、もし用であれば」
  すると
  
  婦人は決心したように、強く頷き、よろしくお願いしますと告げた。

〇飾りの多い玄関
瑞「おーい、お客さんだよ」
  玄関で待たせてから、一人、ここの主人の部屋に向かう。
  そいつは、机に向かったままなにやらしていた。
エレイ「メビウスを回転させると同時に、複数の点からの圧に対する軸が必要だ」
  紙にペンを当てたまま、ぐるぐるとなんらかを書き走りながら唸っていた彼はやがて立ち上がった。
エレイ「明確な鋭利こそが、柔らかいというのは、空間に隙間があること、つまり・・・・・・! あ、おかえり」
瑞「うん。ただいま」
  長い髪を乱れさせながら、そいつはにこりと笑った。
瑞「なにしてたんだ?」
エレイ「いや、柔らかくて強靭とは何だろうかと思って。無限と、有限の間にいくつの粒子があるのかと」
  昨日買ってきたピロー、寝心地が悪かったのかもしれない。

〇書斎
瑞「客が来ているよ」
  机のゴムかすを片付けながら言う。彼はどうやらそうみたいだと答えた。
エレイ「お茶を淹れてくれよ」
瑞「わかった。早く行ってきて」

〇ホテルのエントランス
  しばらくの間はロビーにてソファーに座る婦人と彼をぼくは何をするでもなく見ていた。
  なんの話をするか気になるが、かといって、立ち聞きするべきか迷うのでお茶を用意したはいいが、
  それを置いたあとのふるまいが浮かばない。
  どうにも居心地が悪くしばらく出ていると、数分してから女性は帰り、彼がやってきた。
瑞「どうだった?」
エレイ「とてもどうでもいい会話だったよ、そうだな、すぐ済みそうだね」
  彼は、ときどき近所から相談を受けていることがあった。
  なんのためなのか、いつからなのかという話は聞いたことがあまりないが、恐らく今の様子もそれなのだろう。
  ぼくの帰宅は夕方だったので、その日はそのまま夕食だった。

〇おしゃれなリビングダイニング
瑞「綺麗な婦人だったね」
  ストロガノフを食べながら呟くと、彼は「そうかもね」とたいして興味なさげな返事をする。
エレイ「『それ』よりも、明日がどうなるかと、僕は考えてるんだ」
  はたして他人の悩み話なんか聞いて楽しいのだろうか?
   そう率直に問いかけたとき、彼は「単なる暇潰しさ」と言った。
  そうなのかはぼくには判断ができないけれど
  少なくとも重苦しい気持ちのみがそういった習慣が日頃の彼を悩ませ動かすわけでもなさそうだ。
  スプーンを動かすうちに、少し眠気が増してきている。
  彼、はというと読書に熱中していた。
エレイ「“At the risk sounding too childish,」
エレイ「let me ask you why didnot invite me to there.”」
エレイ「He said in a needlessly loud voice. we said that」
エレイ「“You need not make such a fuss! and don't yellthat.”」
エレイ「the girl said」
エレイ「“he was pic aquarrel」
エレイ「rather than swiidler who used my name!”」
  考え事をするときに無意識に呟いているのだろうか、ぶつぶつとそのような話をしていて、
  邪魔をしないようにと食べ終えた食器を片付けるとき
  そういえばお茶を入れたときのカップをまだ洗っていなかったと、シンクに置かれたものを見て気がついた。
  ひとつのカップにはわずかに紅が塗られて艶を増していた。
  最近の口紅はカップにつきにくいらしいと聞いていたため、
  彼女は物持ちが良いか、気に入りの色なのかもしれないと勝手に推測した。

〇おしゃれな居間
  次の日の朝ぼくはいつも通りに朝食をとり、部屋の隅にある人の形をした模型に挨拶をした。
  いわゆるマネキンだけれど、どんな他人よりも誠実で表情豊かだと思っている。
  いくら待っていても、この調子は戻らないというのに
  知人は勝手にぼくが正気になるのを待っているため、実に不毛な数年が過ぎている。
  要は他人とは余計なことにたいしては黙っているのが一番ということで、執拗に絡むことはそれを崩すに他ならないということ。
  そしてただ淡々と日常を無感動に過ごさせることこそが何よりの妙薬だということを、もう少し検討した方が良いのだが。
  待ちつづけていることそのものが、充分に意識したストレスを与えるのに成功している。
  部屋のある階から窓の外をちらりと見て息を吐いた。
  そこに、見覚えのある人が腕を組んで待っている姿をみとめたからだ。
  待たれると行きたくなくなるのが人の心理というもので、
  ぼくもやはり、地面を睨みながら不愉快そうな彼女を見ていると外に出たくないという感情がより強まっていた。
  待つのは好きではない。
  待つくらいなら行けばいいし、それも面倒なら帰れ。
  他人を見るとよく思う。
瑞「どう思う?」
  ぼくが聞くと、彼はハハハと愉快そうに笑いながら持っていた新聞を閉じた。
エレイ「どうもこうも。きみは早くおせっかい叔母さんに従って、見合いに行けば良いのではないか」
瑞「絶対に嫌だ」
  他人事だと思っているのか、彼は相変わらず笑いっぱなしだ。
エレイ「いや・・・・・・待てよ、今日に限っては、見合いの話じゃない、のかな」
  彼は窓に乗り出すようにして街を眺めた。
エレイ「写真を持っていない、服装もやけによそいきだし、何よりあの大きな紙袋」
エレイ「どこかに土産でも渡してきたかな、靴もハイヒールだ。彼女は普段もう少し動きやすそうな格好をする」
  注意して見てみると確かに彼女の様子は普段のそれではなかった。見ていたこちらを見つけるといそいそと向かって歩いてくる。
エレイ「おや、来る気らしいよ。困ったな、髪をとかしていない」
瑞「そろそろ切ったらどう」
  彼は髪を背中まで伸ばしており、後ろから見ると華奢な少女のようだった。
  どうやら事情があって、そうしているらしい。
  しばらくして階段をずんずんと上る足音が聞こえ出してぼくたちは慌てて気持ちだけ出迎えの用意をした。
  チャイムが鳴り、彼がドアを開ける。
エレイ「おはようございます」
おばさん「おはよう」
  やけに尖った声が、今日はやや萎びている。
  なにがあったのだろう。これは月にあるかないかな珍しいことなので、さすがに心配になった。
瑞「どうかなさったんですか」
  ぼくが恐る恐る出ていくと、彼女はいくらか元気を取り戻し驚いた顔をして耳うちしてきた。
おばさん「アンタも、隅におけないね、彼女がいるなら言っておくれよ」
瑞「いえ、彼女ではないから必要ありません」
おばさん「え?」
  彼女は身体を揺らしながら彼の方へ近づいていく。
おばさん「アンタ! 彼女じゃないの!」
エレイ「残念ながら。で、なにか困りごとでも?」
  彼は冷静に話を戻した。
おばさん「ああ、そうだった聞いておくれよ。私は悪くないと思うんだけどね、今朝から大変でさ」
おばさん「昨日いつものお茶会をするっていうから、婦人の家に行ったんだけど。みんなでテーブルを囲んですぐにね、」
おばさん「あそこのお祖母さまが怒って出ていったの。それから今日もまだ機嫌が悪いんだけど」
  彼女はブランドの新作らしい口紅をつけた口からえらく捲し立てた。
エレイ「ああ、そこなら今日ちょうど行くところです。昨日はちょうどその家の彼女が来られました」
  彼は何か笑いを含んだ声で言った。
エレイ「その理由は、まだわかって居ませんね」
おばさん「そう、それで、私が派手だから好かないとか、弁えたまえとか昨日あそこが急にいちゃもんを電話してきたワケ」
おばさん「その前の月のときには言わなかったんだよ、私があの日出た途端!」
エレイ「仲がよろしいことで」
おばさん「まあ話を聞いてくれるようならよかった。頼んだよ! あんなに怒ることなんて心当たりがないんだ」
  そう言い残して叔母さんは玄関に向かって行き、一度くるりと『こちら』を見た。
おばさん「今日は忙しいけど・・・・・・あんたもね、早く落ち着くんだ、いいね」
瑞「はい」

〇おしゃれなリビングダイニング
エレイ「さて・・・・・・髪をとかさなきゃいけない」
瑞「そうだね」
エレイ「髪が長いとね、重労働なんだ」
瑞「だから切ればいいのに」
  彼は黙って部屋に戻っていくのでぼくもあとに続く。
エレイ「これから外に出てすることは、インターホンのボタンを押すこと、適度な挨拶、それから、彼女の話をもう一度聞くこと」
エレイ「おばあさんの確認をとること。 うん、夜には終わりそうだ」
  夜には終わるというのは早寝がしたい彼には大事なことのようだ。

〇一戸建ての庭先
  簡単な食事や支度をした後に婦人の家へ向かい歩くこととなった。
  歩いて20分程坂道を越えた場所にその家はあった。
  なるほど茶会が開かれそうなそれなりの家で、庭先にはプランターなどが並んで美しく足元を飾っている。
瑞「まさか、ここが叔母さんの友人だったとはね」
エレイ「知らなかったのかい」
  彼の長い髪が、風で微かに揺れている。
  遠巻きに見ると本当に華奢な印象なのだが
  可愛いげのない声で受け答える姿はとてもギャップがあった。
瑞「知っていたなら、玄関先で会った時点でもう少し別の対応をしていたよ」
エレイ「そりゃそうだ。女性は交友がどう広がるか読めないからな」
瑞「何か心当たりでも?」
エレイ「なくはない」
  ドアに付いていた呼び鈴を鳴らすと、しばらくして「どなた?」との返事があった。
エレイ「あの、昨日お会いしたものです」
  彼が言うとやがてすぐに、
  「ああ。はい、わかりました」との返事が来てドアが開いた。
女性「いらっしゃい」
  婦人はいくらか窶れて見えたが、昨日のような若々しさを失っては居なかった。
エレイ「この家は、帽子を脱ぐことを気にしますか」
  彼がぼくより先に聞いた。
  こんな質問をする理由というのがぼくの体質に由来しており、
  黒に中途半端に混ざった青い髪だとか、耳のような部分が少し頭に名残があるとかで、昔はさんざんな扱いを受けたのだが、
  逐一の自己紹介のやりとりが面倒なので、こんな風に隠している。
  その以前の有り様があまりにも酷く、人権そのものを放棄させられそうですらあったのだが
  『彼』と事情を介して打ち解けているうちに少しだけマシな気持ちにもなっていた。
  しかし、それは二人のあいだのみでのことである。
女性「そのままでいいですよ」
  彼女はさして気にするようでもなく答えた。

〇おしゃれな廊下
  廊下を通され、少し緊張しながら歩く。
  
   身体のことを聞かれずに済んだので密かに胸を撫で下ろした。
  庭先で叫ばれ、小説なんぞのネタにされ、化け物の正体を見たいとつきまとわれた記憶が薄く脳裏に掠めて身震いする。
  彼はというと先へ先へ行きながら時折ぼくを見つめている。
エレイ「固くならなくても。普通にしてれば、誰もそれについてずかずか踏み込まないさ」
瑞「だけど、やっぱり他人は苦手だ」
  差別、差別、差別、差別。
  事情を聞いた人のいくらかは、あなたに幸あれだの、神の祝福がありますようにだのと簡単に言うが、
  それはほとんどの場合本心ではない。
  なので、たとえば、『そのような化け物』の出るような話を描いているいくらかの作家などは既に、
  そのきらびやかな表現とは真逆と思っていい卑劣な言葉を毎年わざわざ寄越してくるのだ。
エレイ「安心しろ、あの婦人は作家じゃない」
瑞「そりゃ最高だ。嘘と偽善に満ちた優しさが作る汚れた札束が、ギャンブルを駆け巡る様にはうんざりした」
  この家は何に依るのだろう。
  ひたひたとどこか薄く粘着性を感じる冷たい廊下を歩く。
  途中には、豪華なドレスを着た白い肌のマネキンがケースに入り立っていた。
女性「綺麗でしょう」
  パーティの先頭にいる婦人が言う。
女性「結婚式で着たものなんです」
  確かに目映い白さに贅沢にストーンやレースのあしらわれたそれは晴れ舞台にふさわしそうだった。
  そしてそれを纏いながら凛として佇む『彼女』の姿に目を奪われそうになる。
瑞「本当に、美しい・・・・・・」
  部屋にいる彼女のほうに一途ではあるけれど、
  やはりモデル体型にやけにスリムさを強調した容姿や、長い指先
  、なにより色の白さはそれとまた違う魅力があった。
  つるんとした艶のある素材は、デパートで見かけた子と似ている。
エレイ「あれを作る素材は意外と予算がかかるぞ」
  隣に居た彼が横から囁いてくる。彼はぼくのどうしようもない趣向に理解があった。
  生きている他人よりかは生きていないもののほうが『そういった』魅力を覚えてしまうのだ。
瑞「見ているだけでいいんだ」
  彼女らは喋らず動かず、身勝手や暴力、余計なことをしてこない。
  出掛けなくともいいし、食事を共に出来ずとも変わらずそこに在る。
  生きている他人でそれが満たせる人を、ぼくはほとんど知らないし、これほどに素晴らしい恋人はいない。
  胸がドキドキと高なり、この廊下から離れるまでの間ずっと、身体が火照っているような浮遊感に似た状態に支配されていた。
瑞「あぁ、早く帰りたい。あの子に会いたいんだ」
  横にしたときの、ごとん!
  という重たい音、少し転がるときのがらがらとした無機質な音を聞きたい
  、これは生きてないと確かめたい衝動をこらえる。そして少しざらついた素材を眺めていたい。
エレイ「今は目の前のことだ。夜までにきみの『ヴィーナス』に会うためにも」
  彼はそれだけ言うと、さっさと先に行ってしまった。
  ヴィーナスと言えば、あれは腕がもがれていようとも美しいとよく評されているが、
  ぼくもきっとそうなのかもしれない。
  今部屋にある模型も、手や首がもげたところでちっとも卑しいようには感じないだろう。
  生きている人間の場合だと、その美への評価は変わるのだろうか。時おりそんなことを考える。
  ごとん!
  ごろごろごろ。
  ガララララ・・・・・・
  気がつくと転ががってくる『彼女』が光のこもらない目で、何を見るでもなく宙を向く想像をしていた。
  とんでもなくかわいい。
  その身体を起こして、丁寧に埃を払う仕草まで鮮明に脳裏に浮かぶ。
  この埃を払うしぐさが、何よりも胸が躍り高鳴るのは間違いないことで、生きている人間はこれに劣るのだ。
  ああ、愛している。
  生きていないからこそ!
  そして、わめいて愛を乞い絡み付く醜い他人が罰されますように

〇綺麗なリビング
女性「この部屋でした」
  気がついたとき、そんな声が降ってきて広間に通されていた。
  大きなテーブルに『当時』をおおまかに再現して食器がならんでいた。
女性「こんな風にしていて、祖母も呼んだのですが、彼女は、この入り口に近い席に」
  彼女が相談したこともまた、その人が急に怒り出ていったことだった。
ウシ婆「煩いのですが! 何か用ですか!」
  ドタバタと音がして、右奥の階段から人が降りてきた。
女性「ウシばあ様、これは」
  婦人が少しばかり狼狽える。
  どうも見苦しいところを見せてしまったためのようだ。
ウシ婆「まぁ、貴方は、エレイさんですか」
  彼女の祖母は背が低く、黒く染めた髪の溌剌とした老人だった。
  少し牛の突進を思わせるほどつんのめって歩いていて、
  彼を見るなり名を呼んだ。
エレイ「こんにちは」
ウシ婆「あれから、どうなさりましたか? 盗人どもの護身はいきすぎていましたね。今やみんなが呆れ返っていますよ」
  ホラ、と彼女はいそいそと、近くから新聞や雑誌の束を持ってきて見せつける。
  とある会社が、手を繋いだ他会社たちとともに事業を拡大させ利益を増やすべく行ってきた
  悪質な詐欺とそれに関連する『児童誘拐事件』の記事だった。
  彼やぼくはそれに巻き込まれたことがあるのだが、生き延びたとは言え、未だ復讐の機会を狙われており、
  犯罪者でもないのに隠れるように密やかに過ごさねばならなかった。
エレイ「どうもこうもありません」
  彼は肩を竦めながら笑った。
エレイ「少し前も、電柱の物陰に男が居たし、テレビの回し者が盗聴内容を芸人を使って再現VTRにしているときもあるし」
エレイ「、携帯やパソコンは勝手に操作されるしで、もはや何から摘発すべきかすらわかりません」
エレイ「しかしまぁ、それぞれを金銭で売り渡してバイトにしているのでしょうな。 どこがどうなってるんだか」
エレイ「ひとつひとつから足をどうのは僕らの仕事ではないので、今はただ苦笑いです」
ウシ婆「まーあ・・・・・・今も苦労されているんですね!」
エレイ「えぇ。残念ながら」
  あとで聞いた話、ウシさんは創作家な彼が作っていた『作品』を知っていたらしく、それで彼も知っていたらしい。
  ところでこの日のぼくは別のことを考えていた。
  この祖母が、一見、想像よりも機嫌が良さそうに見えたからこれはもっと早く済みそうだ、と思ったのだ。
  しかしこういう予感は大抵が裏切られるものであるので、その場であえて機嫌の確認をとることもなかった。
エレイ「ここは、庭が綺麗ですね、植えた花や野草がとても調和して見えます」
  ぼくがぼんやりとしているうちに彼の会話は庭の話になっていた。
  ウシさんの趣味で、あちこちからもらった苗を集めて植えているそうだ。
ウシ婆「フラワーアレンジもしているんですよ!」
  ウシさんが誇らしく胸を張る。
ウシ婆「いろんなところに、種や苗をわけてもらったり、森や山に入って自然から分けてもらうこともあります」
ウシ婆「昔はよく山に登ったものですからね」
  分けてもらう、という部分を強調するので、彼はなんとも答えられず苦笑した。
  一応この辺りの森や山にも個人の所有があったりするためだったが、ウシさんが指差した方向は、ウシ家と違う領地だった。
エレイ「はは・・・・・・綺麗な花や植物がたくさん咲いて居ますからね」
ウシ婆「自然の恵みをちょうだいすることで私たちは生かされている。この毎日も、その賜物だということに私は常々感涙しています!」
エレイ「成る程。こうして飾られる花たちからも目が眩むばかりの自信と幸せな輝きがうかがえますな」
エレイ「ところでウシさんの家では茶会が開かれているとか」
  彼がそう口にした瞬間、ウシさんの満ち足りる自信や、幸せな輝きが少し萎縮して、ムッと口の端が尖り、
  なにも言うまい!とばかりの不機嫌に変形したかのようだった。
ウシ婆「なんですか? ハーブティーの残りくらいしか出せませんが!」
ウシ婆「まだその話をするのなら、今日はそれでお引き取りください!」
  形相が、挿し絵の牛鬼や般若のようになり、彼女は来た道を戻り階段をずんずんと進んで行こうと構えた。
エレイ「待ってください。今朝叔母さんに会いましたがウシさんを心配していました。あなたが不機嫌になることを彼女が何かしたのですか」
  ウシさんは目を釣り上げたが答えはしなかった。
ウシ婆「帰ってください!」
  そう言ったきりで、ずしずしと足音を響かせ、二階へとひっこんでしまった。
  彼はそれに返事もせずに、部屋を見渡した。
  入り口に近い席、つまりぼくらの目の前に今見えている席自体になにか変わったところは、見受けられないような気がする。
  その部屋真っ直ぐの奥は台所に続いていた。
エレイ「こちらは見てもよろしいですか」
  彼女が少し二階を心配しながらも頷く。
  歩きながら、彼は「他の四人は」と参加者について聞いた。
女性「あら。なぜ、四人だと」
エレイ「当たっていましたか、 単なる簡単な推理ですよ」
エレイ「あのお節介叔母さんは、容疑が自分以外に目が行かないことを気にする性格をしています」
エレイ「主催者について何かあるなら二度と行かないと答えて済むでしょうから」
エレイ「あなたとウシさんと叔母さん以外に誰か居たのかなとまず思いました」
エレイ「次に叔母さんが仲が良いと豪語する人を私は二人知っています。これはその一人のものですね」
  部屋の壁にかけてあるブーケは石鹸で作られたバラだった。
  日付はその茶会の日になっていた。
エレイ「彼女は最近石鹸を彫刻するのにハマっているとのことで」
  彼が名を答えると彼女は、あと一人を先にと言った。
エレイ「あと一人は、近くのアパートに居ますが夜中に窓の下を見たらね、」
エレイ「歩道から此処にあるのと同じケーキをお土産だと見せてくれました」
  そう言って、彼は台所のそばの棚の上に置かれた苺のたっぷりのったケーキを指差す。
  意識するととたんに、この部屋だけやけに強く甘いにおいが漂っている気がしてきた。
  それは近くの店にさりげなく売っていそうな上等の出来だった。
女性「どちらも当たっている、と思います!」
  彼女も頷いている。
女性「石鹸のかた、特に親切に来てくださる方です」
エレイ「そうですね。僕もそう感じます。 他あと二人もおおよそ同じような土産を頂いたのではないですかな」
  ぼくはふと思い出した。
  香水などをあまりつけないおせっかい叔母さんが少し前に微かに花の香りを纏っていたこと。
瑞「花だ、そうでしょう?」
女性「ええ、茶会のときに、自室につかう装飾品を作りすぎてしまったのでお裾分けいたしました」
エレイ「なるほど、いいですね」
  彼は頷きながらふとぼくを見た。
瑞「何か?」
  顔を近づけると彼は小さく囁いた。
エレイ「甘いものが食べたいのかな。目がキラキラしている」
瑞「少し」
  ハハハと、彼は愉快そうに笑った。
エレイ「少しねぇ。帰ったら何か買いに行こう」
  夜になると耳が生えやすくなるので、なるべくなら夜中にならないうちが最適だった。
  帽子があるとはいえ、用心してしすぎなことはない。
エレイ「リボンや鋏が置いてありますね。教室など開かれてるのですか?」
  ぼくが考え事をする傍らで飾ってあるものを見渡しながら彼が聞いている。
  
  彼女は祖母がたまに、と答えていた。
女性「予算を持ちよって、親しい人だけです」
  基本的にはシンクやコンロなどがあるが、白い壁にもまたあちこち収納用の棚があり、
  いろいろなものが溢れていて見ていても豊かな暮らしがうかがえる。

〇美術室
  なんとなく彼と出会ったときのことを思い出す。
  ぼくは、ちょうど、思春期の真っ只中だった。
  彼もぼくも学生だったが、彼は常に保健室登校のような存在だったので教室に居るような居ないような感じで、
  特に友人に囲まれては居なかった。
  ぼくはそれなりに友人は多かったのだが、それは単なる『広く浅く』の成せる妄想じみた仮面であって
  、卒業さえすれば大抵の相手とはほぼ話もしないだろう間柄だった。
エレイ「不思議なんだ」
  大体空き教室などに居る彼には休み時間会いに行くことがあったが、よく、そんな切り出しで語り出すことがあった。
瑞「なにが?」
エレイ「いや、また、会話もしない、交流もない相手から、いやがらせをされてるみたい」
  彼は友達に囲まれてはいないのに、なぜか見えない場所から石を投げる相手に、囲まれていた。
エレイ「誰だ! って聞きに行くほどクラスメイトなんて知らないから、恨みすら買えないはずなんだけどね」
  確かに教室にすら居るんだか居ないんだかな彼は、誰からも関わられさえしない、
  恨みを買えるほどの存在ですらないので、これは不思議な現象だった。
  それ、は意識を始めると次第に悪化していた。
  とうとう、何か言わないのかと言ったぼくに、
  美術準備室に居た彼は机の上の板にある粘土を何かの形にこねていきながらくすりと笑いつつ答えた。
エレイ「いつも輪の方から逃げていく。入る入らないは、輪に接触できる人間だからこそ言うこと。それが真相」
  何か言おうと無駄だとわかっていたなんて、そんなことが、あるだろうか?
エレイ「やってみなきゃわからないなんてのは、やってもわからないやつの台詞だよ」
エレイ「実際やらずにも見たらわかることはたくさんあるんだ」
エレイ「例えばほら。きみは今から僕に説教をするついでに、ノートをわざわざ見せに来つつ、」
エレイ「委員会会議に出るために確認しなくちゃならないことがあるから相談しようとしていて、ついでにきみはさっきそこで転んだね」
  その通りだったから、ぼくは口を開いて固まった。
エレイ「きみが手に持っているプリントは、今日の授業進度とはなんら関係がない。小テストのやつとも紙が違う」
エレイ「ここの先生は企画や保存用以外は大抵が文字通りの再生紙だ」
エレイ「企業から来る試験の紙や、何か細かい用事のものは少しいい紙だけど、このサイズのコピー用紙は試験用には滅多に使って来ない」
エレイ「それに君がわざわざそうやって鞄から出したままやって来たのがなによりの証拠だよ。テストなら畳んで隠すだろうからね」
  手にしていたプリントを、彼がひょいっとぼくの手から受けとる。
エレイ「うん、少しいい紙だ。いつものより30円くらい高いな」
瑞「音海先輩が、家の紙から作ってきたらしい」
エレイ「なるほど。 彼女は・・・・・・」
瑞「生活指導の先生を中心に、 なんか女子に厳しくなってるみたいだ」
瑞「彼女は今、なんかよくわからない先生の主張で反省させられているよ」
瑞「女子たちが群れてることが規律をなんとかどうとか。服装がどうとか。 今ちょっとした戦争さ」
瑞「折り合いがついてないから 今回 『代わりに男に行かせろ!』とさ」
エレイ「やれやれ」
  彼は伸ばした髪をクリップでまとめて、大きくのびをした。
エレイ「大バカの筆頭が男だから、あまり迫力ないな」
瑞「君が言うと、どの方面の味方なのかもわからない」
エレイ「この件に関していえば委員会でもなんでも、仲間を作ろうというのは、仲間を選ぼうと言うことなんだという事例のひとつだよ」
エレイ「やたらと友達を作りたがるやつは、友達を排除しているのが常なのさ」
  ぼくは、なんだか合点がいった。
  この友人を排除しようと裏から画策するのは彼らだ。
  彼のスタイルが昔気質で排他的な生活指導の目の敵なのだろう。
エレイ「それだけじゃない。少しばかりはきみのせいでもある」
瑞「ぼくが?」
エレイ「知恵を貸すにしろ、勝手に借りられるにしろろくなことはない」
エレイ「以前もきみがたよりにきただろ。その口だしを彼は見下されたと顔を真っ赤にして、未だに根にもってるんだ」
瑞「あぁ・・・・・・」
  確かにそう言った思い出はぼくのなかにもまだ顕在していた。
  あの教員は、いかなる理由においても、女子、または年下、に先を越されるのが悔しくてならないらしい。
  どうやら大昔に、チビで太っていたことを周りの女子からからかわれ、
  年下からも、仕事の出来でからかわれていたのも理由のひとつじゃないかと、いつだったかに別の教員が口にしていた。
エレイ「解決しようがしまいが、 『別の問題』が『蒸気機関車』になって突進してくるだけ」
エレイ「この仕組みがわかっているから僕は、あまり関わりたくないんだがね・・・・・・」
エレイ「あのときもグチグチとずいぶんの間彼らは聞き苦しいことを言い出したものだ」
エレイ「ひいては、こっちの責任だ、と、発想を転換させてきたんだよ」
エレイ「だったらなぜ追及もしないで長い間無能を晒したのかと掘り下げられてたが」
  そういう相手だとそのときのぼくはよく知りもしなかった。
  しかし無自覚にしろ巻き込んだ一因は彼に関わろうとしたぼくにもあるということらしい。
瑞「ぼくに、できることはするよ」
  この話題のおかげで気まずくなってしまったプリントをはたしてどうすべきか。
  ちらりと彼の腕のなかを見る。
エレイ「遅いよ、もう時は動いている。 それにきみだけじゃないからね」
エレイ「他のやつらよりはマシさ、僕の逆恨みを量産するだけでなにも挨拶はしないのだから」
  ひらひら、とその『紙』を振りながらの溜息。
  輪の方から逃げていくというのは、手は出せないが顔は真っ赤だということなんだろうか。
  特になにかせずとも、したとしても、彼はいつも独りだ。
エレイ「僕に敵や味方はないね」
  木の形をしていた粘土がぐにゃりと歪み、あっという間に、泥から沸き上がる腕の形になる。
  どうにか話題を前向きにしようと頭を捻るがぐるぐると脳裏で巡る疑問が先に口をついて出た。
瑞「ところで、確かにノートはいつも見せているけど、転んだかどうしてわかるんだ?」
瑞「それは二つ上の階の教室のことだ。目撃者も居なかった」
  彼はじろりとぼくを見たあとで、
エレイ「制服のズボンの膝が汚れていることや、手首がわずかに擦りむけていること、それから・・・・・・」
  と髪に手を伸ばして、頭についていたらしい綿埃をとった。
エレイ「午前の授業のとき僕は下に居たんだけど。保健室で誰かが絆創膏をもらうのを見た。カーテン越しだから声だけだけどね」
瑞「なんだ、そっちに居たのか」
  埃に気がついていなかったことなどとあわせてなんだか気恥ずかしい気もちになった。
エレイ「あの様子だと軽傷っぽかったけど、なにかボンヤリしてたのかな」
瑞「委員会の件だよ。あと、しつこい好意から逃げていたんだ」
  またか、と彼は楽しそうに笑った。
瑞「ぼくは、好きな『相手』が居る。人間なんかにかまってられないんだ!」
  生きている『人間』ではなく、もともとぼくは、『そうでない』相手に興味があるのに。
  なぜか『あいつら』、ぼくに構おうとする。
エレイ「クラスメイトが泣くぞ」
  唯一気の許せる仲だった彼は、とても愉快に言う。
瑞「別にいいよ」
  他人が大嫌いだ。
  ただでさえ。
  そして年を増すごとに嫌いになっていく。
  頭にあるこの『耳』の名残。
  ケモミミとか言って世間が流行らせたおかげで、間接的とはいえ僕は世間の晒し者。
  息苦しい学校生活をしなくちゃならないというのを、近所の作家に言いにいったことがある。
  彼は『それをネタにした本を発売』した。
  それからは酷いもので、周囲からは、まるで僕が難癖をつけた悪者のようになってしまっていた。
  ケモミミくらいで!
  とまで作家のファンが部屋のそばに嫌がらせに来たりしたのだ。
  生まれついての悩みまで「くらいで」とまで、言いに来られるきっかけになるようなものに、当事者が救われることはないだろうし
  『コピペ作家なんか死ねばいいのに!』とぼくはよく口にしている。
  描いて貰えて幸せね、なんて妬むやつも居るけれど
  ぼくはテレビに自分に似たキャラクターが映るだけでも気が動転してしまうし、
  検索ワードが上がればそれだけ他人が話題にしたり意識されたりしやすくなるわけだから、
  穏やかに過ごせなくなり充分迷惑しているというものだった。
  どうして他人の希望を奪っている作家の生活を支えなくてはならないんだろうか。
  いわゆる底辺の若者だって、他人の幸せを妬むわりに、
  結局買ったその本やDVDだって他人の肥やしになっている、
  それを支援してるのと変わらない、という構図に誰も気づきはしない。
  お前らが喜ぶから犯罪者が付け上がるんだ!
  という話について、彼はただ苦笑いしていた。

〇美術室
エレイ「人類に妬みだけがあるのなら、きっと商売なんて成り立たないだろう。意外と深い話だ」
  ちなみに、ぼくは本なんて年に数冊買うか買わないかくらいだ。
  こうやって愚痴を語る時間の方がまだ楽しいってもので、読むのはさほど好きではない。特にケモミミ!
  自分の体質の間違った解釈が、『大人気』を貼られてアニメや映画にでしゃばっていると発狂したくなるのも無理はない。
  「なにもわからないくせに!」
  
  「検索ワード上げやがって!」
  「また『触らせて~』とか言われる! ラノベじゃねえんだよ!!畜生気持ち悪い!!!」
  
  「最終回希望!!」
  と度々ストレスを募らせるぼくに、彼の方も慣れたもので、
  そういう日に対してはやけに、街でのいろいろな発散に付き合ってくれたように思う。
  特に何も暴れられない日には、ふと不思議な話をしてくれたりした。
エレイ「――こんな話を知ってるかい?」
  ぼくは日頃から、愚痴と謎解きで出来ている。

〇綺麗なリビング
女性「祖母が機嫌が悪いと、この家で、教室が開けなくなります、それで、どうにかならないかと思うのです」
  彼女はケーキを切り分けながらそう言った。現在は大学を辞めて働き出したたあたりのようだった。
エレイ「いろんな年齢が入り乱れてるだろ、僕もあのギャップが受け付けない。大人は働くものというイメージがありすぎたのだと思う」
  そういうものだろうか。
  大人は働くものというイメージは、とはいえ、ぼくも強い方だった。
  家庭の事情で、家族は常に忙しなく働いていたと思う。
  それが同クラスの学生となればイメージとギャップが生まれるのは仕方のないことだ。
  高校生だったぼくはちょうどそのあたりに神経質になっていて「どうしようか」と改めて悩んでいたために
  この話題には真面目にならざるをえなかった。少し前にオープンキャンパスがあったけれど
  どこかお嬢様、お坊っちゃま、学生気分の大人のための場所、というか、そんな感じがぼくもいくらか馴染めなかったりして居る。
  もしかするとこうした『無理をしない』道もあるのだろうか。
  「はい、どうぞ」と出されたケーキはわざわざ客用に用意されていたらしく、流れでご馳走になることとなった。
エレイ「ちなみに・・・・・・これが初めてですか」
  細いフォークを渡され、それぞれ受けとるなか、彼が質問する。
エレイ「機嫌を悪くされたのは」
  初めてでもありませんが、そう、滅多にないのです
エレイ「なるほど。ちなみに茶会というのは、教室の人たちの集まりですね?」
女性「えぇ、そうです! そうでなく友人をここに招いたのはあなたたちで久しぶりです」
エレイ「それは光栄です」
  彼、はにっこり笑って返事をした。
  改めて、
  ただ空気が悪くなっただけでなく
  会で起きた何かによって、周りにまで取り返しがつかないかもしれない事態だということがわかったが、
  当事者は、今どこでどうしているのだろうか。
  機嫌さえなおればいい、というのは思い出や年月の対価には安すぎるような気がする。
エレイ「しかし、年齢層は不思議です。 なにしろ、ウシさんだけが恐らく周りの倍近い歳上であるように見えます」
  彼は遠慮なしに言い放った。
  その会自体に、ウシさんが馴染んでいるとは我々からしたらあまり思えなかった。
  彼女は少し寂しげに微笑んだ。
女性「場をまとめるべく、仕切りを張り切るなど、尽力してくださいますよ。楽しいふれあいの場が保たれるために懸命に」
  しかしそれは、あまりに空回りしている発言だとその場に居た誰もに思えたと感じるが、あえてぼくらは苦笑にとどめた。
エレイ「此処によくいらっしゃるおせっかいな叔母さんからは、ウシさんがやけに仕切るようになったのがつい最近と聞きました」
  そんな話があっただろうかと、ぼくは彼を見上げたが、彼はちらりとぼくを見て今それを言わないように合図した。
女性「えぇ、そうですね、そんな気がしますわ」
  気を遣うのか曖昧に濁しながら彼女は答えた。汗でもかくのかエプロンの裾で、手をしきりにぬぐっている。
エレイ「ああ、そうだところで、昨日知り合いからブルーベリーティー用のバッグを戴いたんで、此処にあるんですが、お好きですか」
  彼女の動揺と対極的にいつの間に用意していたのか、彼は穏やかな様子でポケットから取りだしてそれをひらりと振った。
女性「素敵! 折角ですもの。このまま席で一緒に戴いて良いかしら」
エレイ「もちろん」
  ぼくと彼は頷いた。
  程なくして、カップを暖めるために熱い湯が注がれる。
  彼女がそれをこなしながらも何やら苦悩した表情だったのが何だか気にかかってしまった。
エレイ「実は、叔母さんから聞いた話には続きがありましてね、」
  ティーバッグがひとつめのカップに浸かる間に彼は言う。
エレイ「それがどうにも、叔母さんに直接文句を吹っ掛ける程の怒りであったということですから、彼女が原因かもしれません」
エレイ「もしもその話し合いで済めば、開けないだなんだというような話にはならない気がしますが」
女性「わかります、解決なさらなかったでしょう? だから問題なのです」
女性「皆、何に対してそれほどまで怒るのかに見当が付かなかったために止めるにも止められず、仲介ともいかず・・・・・・」
女性「ただ、激しい怒りを時折り聞くのみです」
エレイ「貴女には、何か?」
女性「いいえ、特には」
  葉が湯からはずされ、お茶が入れられたカップに一旦蓋を被せながら彼女は首を横に振って、棚を見上げた。
女性「棚にジャムがあったはず・・・・・・」
エレイ「お節介叔母さんのそのときの格好は記憶にありますか」
女性「なぜ、そのようなこと」
エレイ「派手なのがいけない、と言うような苦情だったと聞いたのでね」
女性「・・・・・・花柄の、前にテレビで観た」
女性「オオサカで昔流行ったと言われる強烈な色使いの花柄のスカートと、黒い上着でしたよ。派手なのはいつもです」
  3つ、カップに茶が入った後彼女は我々の目の前の席についた。
女性「お砂糖やミルクは?」
エレイ「僕は要りません」
瑞「ぼくもいいです」
女性「そうですか、では戴きましょうか。 いい香り。フルーツのお茶は特に渋味や酸味を感じやすいけれど、これは調度いいです」
エレイ「そうでしょう、僕も気に入っていますから」
  ぼくは、そんな二人の会話を聞き流しながらきょろりと辺りを見渡した。
  女性らしい清潔さのある部屋だ。ここでお茶を飲んでいる時間がなんだかそわそわと落ち着かない空間に思えていた。
  ケーキにフォークでゆっくり切り込み、食べる。それは、優しく甘い香りがして美味しかった。
エレイ「怒るときの様子はどうでしたか?」
女性「今は片付いて居ますが、ガラスが割れ、花飾りがぐしゃぐしゃにされて投げられて、ミルクがテーブルに舞い散りましたね」
女性「ウシさんはそれで彼女の使っていたカップを自ら割りました。とにかく激しい癇癪をおこしていました」
エレイ「何か飲んでいたときだったと言うことですか」
女性「えぇ。だと思います」
エレイ「大体の様子はわかりました。 あの。食事中ですが、少し思い出すことがあるのでメールを・・・・・・」
女性「どうぞ」
  彼がメールを打つ。誰へ打つのかなど想いながらぼくはケーキを味わっていた。
  が、ポケットが、ブルブル震えた。
瑞「えっ!」
  思わず立ち上がる。
  様子に彼女が思わず吹き出すので、少し彼、をにらみながらぼくは着信に応えた。
  『おばさんの番号は?』
  
  がそこに書いてあり、
  なんだか紳士的と逆の雑な質問の文面に苦笑いしそうになるが、電話帳を開いて番号を貼りつける。
  ついでなので、質問もしておいた。
  『彼女の夫は、どうしているんだろうか。なんだか聞きにくいけれど、立場によっては迷惑がかかってしまう』
  ぼくは、廊下に居たあの『ドレスを着た女神』についてを思いだしていた。
  彼女は少なくとも、薬指に指輪はつけてないし、お揃いの皿やカップを買うという風習のところもあるが
  それらも見当たらない。
   もちろん物だけでは判断出来ないが、
  いくら彼のような見た目でも結婚していればそう易々と部屋に男性を入れないで、玄関先くらいという場合も珍しくないのだが。
エレイ「『彼女は、あのドレスのサイズではないよ。背が足らない』」
瑞「・・・・・・」
  彼女には見せられない返信だ。
女性「どうかなさいましたか?」
  当人が、カップを両手で包み込みながらも首を傾げる。
瑞「いえ、別に、その」
  なんだかぼくは慌てた。
  彼は至って真面目な顔で、電話をしてくると言って部屋を出ていく。
瑞「ちょっ・・・・・・」
  このタイミングで置いていくということに彼を恨みたくなるがそうは言っても仕方がない。
瑞「ケーキ、美味しいです」
  改めて気まずいながらにそんなことを口にするのが精一杯だった。

〇一戸建ての庭先
  『女郎は浮気らしく見えて心のかしこきが上物』
  これでいう浮気というのは、陽気で派手な気質のことらしい。
  私には両親が居なかったけれど浮気らしく見える振る舞いはかかさなかった。
  それこそが良いとして生きてきたのである。
  春夏秋冬が浮気で楽しく生きていければ素晴らしいではないか。
  散歩コースでたまたま道ですれ違うだけの《彼》と友人になってからというもの、しかし私は浮気に頭を悩ませることとなった。
  《彼》の言う言葉は難しいものであった。
  人と話せば浮気だと言い、人を見ていれば浮気だと言う。
  陽気で派手な気質を好まぬ変わり者だったのだ。
  独り閉じ籠り陰鬱とする女性が好みだという者も勿論いるだろうけれど、私は元よりそうというわけでもなかった。
  何もかも浮気な私が否定され、やがて私は私でなくなって居た。
  庭でぼんやりとする時間、フラワーアレンジのために育てられている花たちのプランターを眺めるのが唯一喜びだった。
  このように咲き、隣の花と寄り添いながら目の前の自然を眺めている小さな浮気たちは、私と違い許されているのである。
  ただ黙り、黙々と浮気を許された花たちが誰かの手へ渡る様を眺め、自分を重ねていた。

〇綺麗なリビング
  彼はこの家に住み着くようになった。彼から逃れる術を私は持っていなかったし、彼は浮気を嫌うのでただ陰鬱としているしかない。
  客をもてなしていても彼女らが帰るとと力強く頬を叩かれてしまう。
???「浮気はやめろと言っただろう」
  笑顔を嫌う彼のために、浮気をするわけではないというのに。
女性「浮気は、素晴らしいことですわ。女性が笑顔を見せたり、他人に話しかけることはとても大事な役割です」
???「話しかけるな! なぜそんな必要がある」
  女性は口から生まれるという言葉もあるように、他人と会話したり笑顔でコミュニケーションすることは大事なことだった。

〇綺麗な一人部屋
  ある日から、浮気、にとって変わる言葉が私を苛み始めた。
???「フリンカ!」
  呪文のようだった。
  最初は、ブリンクリーとか、プリンキピアと仰ったのだと思って聞き流したけれど、
  いつまでも「フリンカ!フリンカ!」の謎はしばらく解けないままだった。
  浮気も、もしかしたらウワキはなく、彼特有の呪文のひとつだったのかもしれない。
  それから少ししてどうしてもフリンカとしか聞こえない確信とともに、フリンカについて、どこかにないかと辞書を引いた。
  ――――スロバキアの民族主義政治家のことだった。
  しかし私は、あまり図書館へ外出しないしインターネットというものをあまりしない為
  フリンカについてやはりそれ以上の知識を持ち得ることができなかったし、したところで、私はフリンカではないのだ。

〇一戸建ての庭先
  やがて、ガーデニングの手伝いで、ウワキ、上木が、庭園の上層を成す樹木のことでもある知識を得た。
  建築では、継ぎ手や組手において上になるほうの木のことらしく、下木も存在していた。
  ときに私を木に例え、そして、政治家に例えてまで彼は何と戦ったのだろうか。
  私を好いているとおっしゃったのに、私自身を呼ばれることはなく、
  いつからか私の名前はウワキダであり、フリンカのようだった。

〇一戸建ての庭先
女性「フリンカではありません!」
  私はある日、ついに涙を堪えながら叫んだ。
女性「ウワキダでもありません! なんですか、あなたこそ、私の名前をフリンカと間違えたままじゃないですか!」
  《彼》は、激昂した。
???「知らないフリをするのか、この、たわけ!」
  《彼》は恋愛というものの経験が豊富だった。
  そして自身の理解を押し付けることに充足感を得ていたのだ。
  あまり理解のない人を見ると自分と相手の間にある暴力的な気持ちをおさえきれないのだろう。
???「フリンダ!」
  彼は新たな変化系呪文を唱えて、私を殴り付けた。
  わけのわからないことばかり唱えては、一方的に殴る、蹴る。
  あまりにも私を否定する不気味な存在となっていた。
  彼は私の名前を呼ぶことはなく、いつも違う方の名前を呼びつけていた。
  特に気に入っている方が、フリンカ、フリンダ、ウワキダ。
  でも、それらが誰かについて聞こうとすればいつもより顔を真っ赤にさせた。
???「ふざけてんのか? お前がフリンダだろ! なぁ?」
  私は、いつのまにかフリンダという名前に改名したのだろうか。
  フリンカは政治家。
  フリンダは、オーストラリアにはフリンダーズ川があるという話は聞いたことがあったので、その集落の方なのだろう。
  ウワキダは、わからなかった。
  
  浮気なのか、上木田なのか。
  ただ名前を呼ばれたかったのに、彼は、フリンダしか見ていない。
  その頃にはいつしか浮気を忘れてしまっていた。
  陽気に振る舞うと、《彼》がウワキダかフリンカ、フリンダと間違えてしまうのだから。
  たぶん彼女らはそんな性格の人だったのだろう。
  ただ家事に徹する機械のように、ウワキダやフリンカやフリンダとしか呼ばれない自分の名も、もう忘れていきそうだった。

〇綺麗なリビング
  《彼》は特に私に来客があるときに集中して、名前を間違えた。
  不安なのか焦りなのかわからないが、動転して過去の記憶が混ざってしまうのだろう。
???「この、フリン!」
  怒りが頂点に達した彼は、それでもまたついに、知らない愛称で呼んだ。
女性「フリンじゃ、ないです!」
???「ダッタラウワキダ!!」
  ウワキダさんのフルネームだろうか。
  マトリョシカのように、マトリョちゃんなのだろうか?
  ダッタラ、ダッタラ!
  彼はとても真面目に訴えていたが、私にはやはり意味が通じていなかった。
  《この部分》の話になると、いつも恐怖を感じてしまう。
  せめて、言葉が通じれば良いのだが、わけもわからず、そしてわからないことすらも認めてもらえないことがとても悲しいことだ。
  そうなれば無心のまま
  壁に釘付けられてしまったドライフラワーを眺めて、
  興奮が収まるのを待つのみだった。
  目を閉じていると、脳裏に浮かんでくる。
  ――フリンダ!
  私は・・・・・・
  私はフリンダではないのです
  ――バカにしてんのかウワキダ! ウワキダ、わかってくれよ!! 意味がわからないなんて、とぼけるなよ!
  何を怒るのでしょうか。
  私はいつも、ただ他人と話すだけだというのに。

〇綺麗なリビング
瑞「ケーキ、美味しいです」
  どうにか絞り出した声に、《彼女》は「そう、よかったです」と答えたがなんだか顔色が悪そうだった。
瑞「どうかなさいましたか?」
  聞いてみるが、ただ、あぁ・・・・・・とぼんやりした呻きを上げている。
女性「私が、悪い、私が話すから私が、私が、フリンカ、フリンダ、私は、ウワキダ、フリンカ、フリンダ・・・・・・」
  何かの呪文だろうか?
  それにしたって聞きなれない
  羅列だったので、意図が伝わらなかった。
  彼女は、そうしているあいだにも目の前でどんどん青ざめていく。
女性「あぁ! フリンカフリンダ、ウワキダ、フリンカ、フリンダウワキダ、あぁ!」
瑞「あの」
  ぼくは慌てた。
  彼を呼べばいいのか、なにか処置が必要か電話で何処かに連絡すべきか、一時的な錯乱ならよいのだが。
女性「スベテは、俺のだ! フリンカ! フリンカ、スベテは俺のなんだ!」
  人の名前だろうか?
  明確な発音がわからなかったが、そんな響きがあった。
女性「マエノス・ベテは、俺だと・・・・・・彼は、マエノス・ベテという名前で呼びます、だから」
  テーブルから離れてしゃがみこんだ彼女に、せめて多少の意識が戻らないかとぼくは呼び掛けた。
  彼女はしばらくして、はっと我に返り泣き出した。
  そして少し泣きやむと、呟くように言った。
女性「大丈夫です、ごめんなさい、」
女性「少し話をしますが良いでしょうか?」
  以前、此処に《彼》がすみついていたのです。
  行くところがないからと頼まれ、最初は不憫に思ったのですが
  慣れるにつれてその正体を知りました。
女性「とても切れやすい、包丁のような人でした」
  家では、俺はマエノス・ベテと名乗り、
  俺はマエノスベテだからな、と常に強気で言い聞かせていました。
  私を様々な女性の名で呼びました。
  やめてほしいと、頼んだのです・・・・・・
  それらは誰なのかと、聞いたのです。
???「知らないフリをするのか、なんて卑劣なやつだ、」
  彼は私がその名前に疑問を持つとまず呆れ、次に罵ります。
???「お前が、知っているんじゃないのか? まさかボケたんじゃないだろうな!!」
  マエノス・ベテは私の髪を強く掴むと耳もとで大声を出してそう罵倒していました。
???「わかるか、わかるよな? 俺はマエノス・ベテだ」
  そして、何度も私を叩きました。
???「誰ですか? なんて、卑しい女だな。 計算高いというべきか、卑しいと言うか。 さすが、女は嘘をつく、演技をする生き物だ」
  私が何かわからないことにたいしてひどく腹を立て、
  また自分が、マエノスベテだと他人が思ってないだろうと、信じませんでしたので
  周りに対してやけに疑心暗鬼で顔を赤くしていました。
  計算高いのであれば、私はきっとフリンカやフリンダの正体を知るフリをし、
  愛想よく、マエノスベテと自分を呼ぶ彼に、彼の望む言葉をそう、何度も言い聞かせたはずです。
女性「彼に気に入られることすらありませんでした」
女性「その代わりに彼は、私がいかに計算高く卑しいかという話を 近所に吹聴するほどに怒り狂い」
女性「その卑しさを雑誌のコラムに投稿までもを目論む始末だったのです・・・・・・」
女性「しかしこの《彼》マエノス・ベテは、笑わない鬼ではありません」
女性「横瀬という名の人と時々電話をしています」
女性「恋愛経験の豊富さが彼の自慢のひとつで、」
女性「出会い頭に私に毎日のように自分を呼ぶ強要をするだけではなく、横瀬とは常に笑い声をさせていました」
???「ヨコセ、マエノスベテだよ!」
女性「彼は横瀬にだけは自分を認めてもらえるのか、それとも一緒にガールズハントを目論むのか、」
女性「何かと相談し、そのときだけの笑顔は私の見ないものでした」
女性「普段は、彼は怒鳴っています。 特に家に来客があると彼は怒鳴るのが多く、」
女性「こうして今のように誰かを呼ぶなんてとてもでした」
女性「・・・・・・今? それはあとで話します」

〇アーケード商店街
  彼は私が出掛けると必ずついてきます。嫌いである私を常に監視する日課があったのです。
  しかし買い物で店の店員と話していたりするような仕方のない場合はマエノスベテが怒らないために、
  私はよく気軽に会話する機会にしていました。
  単なる他人だと、パニックになった彼が違う女性と私に見分けが付かなくなるから。
  ある日も、店員ならば安心と少しだけ会話をしていると帰り道で急に
???「なんで俺とは話さないんだよ!」
  と彼は叫び出しました。
  
  
  不思議でしょう?
  いつも会話は一方通行、質問も許さず、計算高いと罵り、ひたすら違う方の名前を呼んでいるんですよ。
  私の意思なんかなかったので、彼と会話など成り立ちません。
???「俺と話せ! いいな!」
  帰宅しようとする間も、彼は、ウワキダ、フリンカ、フリンダと思っている私に対して強引に肩を掴み何度も頷かせようとした。
  私は、はい、と言えなかった。
  というのも、その頃にはもう、一体どんな性格で居れば、ウワキダ、フリンカ、フリンダと、私の見分けが付くのか
  検討がつかなくなっていたから。
  
  陰気に、うつむいていることだけが、彼が私に認めたことだからでもあった。ただ・・・・・・
???「なぜ笑わないんだ!」
  道を歩いている際周りが、その暗さに疑問を持つと急に彼は焦って、笑うのを頼んだ。
  明るく笑うと、またウワキダ、フリンカ、フリンダが出てきてしまうので、私は首を横に振るしかないのだった。
???「笑顔が、見たいんだよ、幸せになって欲しいんだ」
  私が身を固めているうちに彼はそんなことを言ってまで意思を変えさせようと躍起になった。
???「話せ! 笑うんだ!」
  いくらそう言われても笑えば最後。
  『ウワキダ!』と叫んだ彼がすかさず私を殴り付けるという恐怖に洗脳されていましたし、
  出会った辺りからすっかりその暗示にかかっていました。
  耳元で低い声が今も
  『フリン! フリンカー!』と、聞こえてくるようです。
  ガタガタ震えて耳を塞ぎ、私は、絶対に笑わない、声も出さない、とその際心のなかで誓いました。
  感情が出ては負けなのです。
  彼は感情全てを、ウワキダやフリンカの性格に当てはめてしまう。
  他の他人は見て居ません。
  叫びました。
   声にならない声で私は、
  ウワキダやフリンカ、フリンダを知りません、もう許してください、他人とふれあってはならないのですか、
  何もなく笑うことなどできやしない!

〇綺麗なリビング
  そこまで言って、彼女は一息置いて、まず茶を飲んだ。
  ぼくは、ケーキの美味さとは別に、彼女に降りかかるあまりの出来事にさらに驚いていた。
  あらゆる接触の機会を遮断しながら、笑顔を見せろ、話せ、というのは無茶な話だった。
  面白いこともなく、ただプライドによって感情を強引に変えることが出来るのは、生きた人間にする行為ではない。
  彼はもしくは生き物と暮らしたことがないのだろうか。
  思考実験でよく話にあがるメアリーの部屋を思い出した。
  あれは『色』の定義からまず成り立たせる環境が確定していないなど様々な部分があるけれど。
  感情を発散させる場を持たない、許されない人間が、感情を見せることを試されたとき。
  急な強要により精神が崩壊しても不思議ではない。
瑞「それは、確かに彼がおかしいと思います」
  何も見えず何も聞けない毎日と暴力を与えながら表では笑え、なにか言えと言われても、殴られる恐怖しか頭にないのは明らかだ。
  フリンダ、ってなんだか不倫と似ていた。
  もしかしたら不倫だと言ったのだろうか。
女性「ふりん・・・・・・ですか?」
  彼女は首を傾げる。
女性「お菓子ではなく」
瑞「ぷりんですね・・・・・・えっと」
  携帯から電子辞書を起動する。不倫、にわかりやすい表現は――っと。
  『道徳に反すること。男女の関係についていう』
  『人道に反すること』
  余計わからねぇ!!
  なんだこれ、不倫がつまり何かさっぱりだ。
女性「盗みや人殺しも、不倫ですか」
  ぼくが呟いてるのを見て、彼女は真剣に聞いてきた。
瑞「盗みや人殺しは不倫では・・・・・・いや」
  恋愛が絡んでいたらある意味不倫では?
  的確な表現が見当たらないのに、他人にどうこう言うわけにはいかない。
  あれ、不倫って何だ?
  浮気とは違うのか?
瑞「好きな人がいるのに別に好きな人と関係を持つというか」
女性「それは『別れよう』じゃないですか?」
  確かに、ドラマや漫画でそんなシーンがあると『別れよう』だった。うん。
  一応、浮気を検索すると最初に出てくるのは心が浮わついている、とか陽気で派手だった。
  辞書を見ていてもあまりしっくり来るものがない。
  これではもし『そういう意味』が含まれていたとしても彼女が理解出来なくてもなんら不思議ではなかった。
瑞「ご両親からは、なにか」
女性「ずいぶん前からほとんど関わりがありません」
  それは困った。
  ぼくも的確な説明ができないぞ。
瑞「少女漫画は」
女性「あまり好きではありません」
  ・・・・・・そうですか。
  いろんな意味で、ぼくが少女漫画を力説するわけにもいかないため、唸ってしまった。
女性「それが何か関係があるのですか」
  陽気で楽しく居たところに、ウワキダとかフリンダとかわけのわからないことを叫ぶ男が急に住み着いて
  ひたすら怒鳴っていて、さらに理解を求めようにも計算だとか馬鹿だとか余計に怒りに火をつけてたら
  そりゃ無防備なところをボコボコにしているのと変わらない。
瑞「失礼ですが、マエノスベテとご結婚は?」
女性「いえ・・・・・・全く」
瑞「失礼しました」
  結婚しているかどうかで浮気との違いをまとめることはできなかった。
  話を逸らしてしまったけれどもし浮気や不倫だったとしても
  それでいて彼女の事態になにか関係があるのかと言えばそれも確かに謎だった。
  不倫には当てはまらないし、浮気という意味が、客を招いては逐一起きるだろうか?
  指名ナンバーワンホストじゃあるまいし。
   何か夜の店などはされてますかなんて聞いて良いのだろうか。
  聞かない方が良い気がした。そうであっても違っても、人によっては不快感を表すだろう。
瑞「なんにしたって、言葉不足過ぎますね・・・・・・暴力と一緒だ」
  友達(オタク)が好きなアニメで確か似たような話をしていた。
  言葉が通じないからとりあえず行為に持ち込もうという、実にカオスな話だった。
  ぼくはまるで興味がなかったけれど。
女性「分かってくれ! が口癖でした。私は何もわからなかった」
瑞「仕方がありません。誰だってわからないことがあります、災難でしたね」

〇家の廊下
  彼、を探しに廊下に向かうと廊下の先、玄関の方に困った顔のまま立っていた。
  そして何やら大柄の男と対峙している。
???「あぁ!? 男を知らない、と思ったのに! 経験なく男を知らないと思ったんだ俺は! そして俺に染め上げる!」
エレイ「・・・・・・何語を話してるんだ?」
瑞「・・・・・・」
  彼はとても冷静に、そして困惑を示していた。
???「誰だコイツは!」
エレイ「はぁ、招かれただけですが」
???「ちょっと男を知らないと思えば、いつのまにこんな奴を!!」
エレイ「さぁ、知らないのは知らないでしょうけど、望みが叶うことはリスクや不具合も叶うことです。それが摂理というもの」
???「俺は経験豊富なんだ、そんなやつは計算だと見抜くことができる」
  彼はちらりと、ぼくを見た。
エレイ「この頭の可哀想な彼が、家に入りたいそうだが」
  彼が、マエノスベテだろうと、なんとなくぼくは察した。
  マエノスベテが居る空気を察してか、彼女はその場に出て行かなかった。
  それで余計にマエノスベテは怒った。
???「居るんだろう! なあ、いるんだろ!!」
  しばらく叫ぶ間、ぼくと彼がどかずに居ると舌打ちしてドアを強く閉めていったが、
  なんだったんだという話になりかけたところで
  ブォオオオン! と激しい爆音!が聞こえてきた。
エレイ「どうやら前時代のなかにいるらしい」
  彼は肩を竦めて、近くの小窓を覗きに行くのでぼくもついていく。
  そのときになって彼女も我に返りぼくらの後ろから窓を見た。
  バイクに乗った5、6人が、家を包囲していた。
???「出てこい! 出てこないと恥ずかしい写真でもなんでもやってばらまくからな」
  そんなことを叫ぶのはどうなのかという点についてはこの際触れないで置くが、
  これは一体、どういうことなのだろう。
  彼女は出ていくかどうか少し迷っているようだった。
エレイ「な、なんて茶番・・・・・・」
  彼、は呆れたようにため息を吐く。
  彼女は悲痛そうな顔で呟いた。
女性「彼、が孤独な理由と、ウチに転がり込んできた理由のひとつはこれだったのです」
  そういえば、マエノスベテについてぼくらは特に細かくは聞かされていなかったことを思い出した。
  出てくるまで集団で包囲する発想はまるで犯罪者の扱いだ。
エレイ「逆に出ていきにくいな、これは」
  一人ならともかく、そもそも他のは誰だ。
  出てこないことに腹を立てているマエノスベテは、手にしていた拡声器を口に当てた。
???「おーい! お嬢さんやー! 死んじまったかい?」
  程なく、玄関のチャイムが鳴らされる。
おばさん「ウシさん! うるさいですよ、またアンタんとこのツレさんが騒いどります」
  ウシさんは、二階からばたばた降りてくると廊下に立ち尽くす彼女を見てじっと睨んだ。
  あんた、なんとかしなさい、という無言の威圧だ。
女性「う・・・・・・」
  彼女は「嫌だな、出ていきたくない」という表情だったが、
  近所からもお前が止めろと訴えが来て、部屋からもこれなので、とうとうドアを開けた。
  ドアを開けたものの、その先に居たご近所さんは、生け贄待ってましたとでも言わんばかりの笑顔で彼女の背を押し、
  マエノスベテへ差し出そうとした。
おばさん「いやいや、お待ちかねですよ」
  喧しいと言っていたときのキツさはどこへやら、それはとても柔らかなふるまいだった。
  彼女は逃げる術も無いため、そのまま部屋から出される他はなかった。
  いいのかいと、彼、へ聞くと、
  「だからといって事情もわからないので入りようがない」と言った。
  ぼくも、特に事情を知るわけではないが他人を見るたびに
  ウワキダ、フリンダと騒ぎ立てる精神の持ち主なだけに、下手に接触していいのかと少し迷ってしまった。

〇家の廊下
女性「なにか、用事ですか、あなたは出ていったはずです」
???「出ていった? ううん、あのときはカッとなっただけなんだ。悪いことしちゃったなぁ」
  男はやけににこにこして彼女に歩み寄った。
瑞「ほんとかよ・・・・・・」
  後ろ、玄関の中から見守りながらぼそっとぼくが言い、、彼は
エレイ2「あの包囲網で言われるとなあ」
  、と苦笑いを返す。
???「ごめん、きみを愛してる」
婦人「そう。さよなら、それと」
  彼女は何からどう突っ込もうか2秒ほど迷ったようだったが別れを述べて、ついでになにか続けようとした。
  彼が少しむきになったときだった。
  誰が呼んだのか、奥の道から赤いランプをつけた車が走ってきた。
???「うわっ、また来る!」
  そうして彼は慌てて仲間たちと撤退した。
婦人「お騒がせしました」
  彼女はそうことわると、なるべくさっさと家へ戻って来た。
  どうにか今は距離を置いている状態だが、しかしこの囲い込みはあまり変わらないらしい。
婦人「私が心配だと言いますが、今思うと彼は、もう少し別の心配からすべきだと思います」
エレイ2「なんというか、遠いところからもわかる、すごい人だな」
婦人「えぇ。エレイさんも思いましたか」
エレイ2「彼とは何か、暴力沙汰があったような感じがするね」
婦人「まるで見てきたようなことを言うんですね」
エレイ2「なんとなく、そんな雰囲気があるというのかな、言ってもわからないと思うよ」
婦人「そうですか・・・・・・まぁ、そのようなものです」
  ぼくにしたのと同じような話の概要を彼女は軽く彼に語った。
エレイ2「目が合い会話をするだけであらゆるものが許せないというのは、異常、やり過ぎだな」

〇家の廊下
  ピンポン、とチャイムが鳴り、ほどなくして来客の声がした。
ナエさん「もーっしもーし! 私だよ」
エレイ2「来たか。近くのアパートに住むやつだよ。ケーキを見せてくれた」
  どうやら彼が呼んだらしい。
エレイ2「入れても?」
  彼女、が頷く。
ナエさん「いやっほう、ナエごんです」
エレイ2「今日はやけにテンションが高いね」
  ふわふわした長い黒髪とまんまるの瞳。それから腕にはくまちゃん。ナエのスタイルだった。
瑞「あ、お久しぶり!」
ナエさん「ウシさんは?」
エレイ2「今は、二階」
ナエさん「よかったぁ・・・・・・ウシさんに会うのはまだ少し緊張するからね」
  悪魔に強制契約で『魂だけ』奪われる人間が存在する。
  彼女はその一人。
  しかし悪魔自体が奪うわけではなく契約者が自分の代わりに差し出した、という表記が正しいので
  ゴーストライターでいうところのゴースト、というのが正しい位置であり、利点はこれといってないのが特徴だ。
ナエさん「いやぁ、ゴーストも楽じゃないもんだよ」
ナエさん「本体より目立てないっていうけど、んなことしたらコンビニでおにぎりも買えないじゃないのよ!」
ナエさん「それに遠くから言うより直接アドバイスしましょうかって、燃費と効率の改善を提案しただけなのにこの前無視したのよ」
ナエさん「よく考えたらいい話じゃない?」
ナエさん「生きていけないくせにプライドが高すぎったらありゃしないわよ。 そんなんじゃまずプライドから死ぬって・・・」
エレイ2「僕にいうな、馬鹿」
ナエさん「好意なんかもつと、もう他人でありゴーストだと認めたようなもんじゃない?」
ナエさん「なのに気持ちだけは伝えようとするんだよ、ありえない!」
ナエさん「黙っとけばいいのに。 ゴーストに、自分の代わりをさせてるんだから、それが好きって」
ナエさん「気持ちも何もかも、自分自身にやってるってことになるよ、ナルシストだよ」
エレイ2「僕にいうな、だから」
ナエさん「思うに器量がないやつは、悪いことしない方がいい。でも、そうだからするんだよねぇ。悩ましい話」
ナエさん「にしてもさっきは何かあったのかしら? パトカーがすごい勢いで走っていったけれど。ナエごん気になっちゃう」
瑞「あぁ・・・・・・『彼』が来ていて」
ナエさん「なーるほど」
  彼女は少し事情を知っているらしくぽん、と手を打った。
ナエさん「『彼』は困ったものよね、どの人間も自分と同じような仕組みの生物だと本気で思ってるんだから」
  くまちゃんは、その腕の中で、ぼそっと「甘いにおいだな」と呟いた。
  どういう仕組みかは謎だがこのぬいぐるみは、まれに喋る。
???「ほら、昔の画家とかにも居なかったっけ? 周りを養分みたいに吸収することを好意と呼ぶ人が」
  確かに、なんだか居た気がする。
  隣に居る彼は詳しいだろうかと見上げると、彼は彼で何か考え込んでいるようだった。
  いや・・・・・・考えてるのだろうか?ぼんやりとどこかを見たまま固まっていた。
ナエさん「互いに良い影響を及ぼす存在になるというのは、そういった意味だと貴方たちかな?」
  ふいに、こちらに話を振られてどうでしょうかねと微妙な返事をしてしまった。
  ぼくたちはなにか影響されたりしたりしてるだろうか。あまり意識したことがないように思う。
エレイ2「影響は影響、結果が結果、僕はそう思うな」
  彼は彼でなにやら撹乱するようなことを言った。
ナエさん「そういえば、なにか甘い物を食べたの?」
  ナエさんはふと思い出したようにぼくらに聞いた。
  ぼくは「食べた」と素直に答えた。
  『彼女』はまだケーキがあるけどと台所へ向かっていき『彼』もあとに続く。
  ぼくがついて行こうとしたときナエさんとすれ違った。
  耳打ち。
ナエさん「ナエごんじゃなくて、ぬいぐるみに話すんだ?」
  ――え?
ナエさん「きみって、なかなかいい耳してるね」
  慌てて、帽子ごと頭を押さえる。
  
  大丈夫脱げていない。
  いい耳、か。
  後に続きながら彼女の言葉の意味を考えてみる。
  ぬいぐるみがしゃべっているとは周りは思ってない・・・・・・?
瑞「この場合、ぼくの方がおかしいのか?」
  ともかく、彼女も《そういう》人らしかった。

〇綺麗なリビング
  ウシさんが突然怒り出した状況について、彼女は特に何か言われたりしなかったらしい。
ナエさん「あっちが、なんとなくむしろ私を苦手としていたかな、距離がつかめないというか」
  ナエさんが話すあいだ、
  彼女――相談者は、改めてお茶をいれた。
  ぼくはさすがに二つ目のケーキは辞退したが、
  彼、の方は食欲があるらしくナエさんと並んでごちそうになっていた。
  これでは、なんだかもてなされに来ただけみたいだ。
ナエさん「だから、私は、その・・・・・・」
  彼女、を見てナエさんは少し遠慮したようだった。彼女は察したように続けた。
婦人「そうですね、ウシさんの当たりがキツいような気がして、申し訳ありません・・・・・・」
婦人「ウシさんがフラワーアレンジに使われてる花、ナエさんのところの土地からもよくご厄介になってるんですが」
  『年下に頭を下げるのはプライドが傷つくし、ましてや女』
  というのがウシさんの考えらしかった。
エレイ2「土地よりも、管理する人だけを見ているみたいだね」
  彼、がぼそっと呟いた。
  ウシさんにとっては、自分より立場があるかどうかがすべての基準なのかもしれない。
ナエさん「あ、これ!」
  部屋に行くところに飾ってあったブーケを見てナエさんは嬉しそうな声をあげた。
  それは石鹸が細かく削って作られたバラでできている。
ナエさん「あの子の、やっぱり、美しいわね」
婦人「えぇ、なにか忙しいとかで、すぐ帰られてしまいましたが」
ナエさん「そっかそっか。うふふ。 私もこのあと調査があるから、早いとこ証言だけするわね、ちょっとごめん・・・・・・」
  片手間にどこからか、小さなノート・・・新聞のスクラップブック?を出してナエさんは小さく畳んだそれを開いて、何かメモする。
  ちらりと見えた見出しは『街を騒がせている芸術テロ』だった。
ナエさん「たまに起きるのよね、まぁ、会社側が悪いのだけど・・・・・・ いわゆる『飼い殺し』が多発したのが起源らしいわ」
  写真になっているのは、風船が飛んでいく絵だった。
  風船の話が国語の教科書にあったなとぼくは思い出す。
  花の種と手紙をつけて、空へ飛ばすのだ。授業でもやらされた。
  ――自由と解放の象徴。
  
  または、救援信号。
  誰かはわかっていないが、ある意味わかっている。
  ぼくは会ってないが、彼、は会ったらしい。
  似たような話が、昔もあった。
  あのときは実際株価が変動はもちろん、税金逃れの名ばかりな会社が一気につぶれた。
  みんなが知る芸能人や、大企業も融資に関わったと言われているが、わりとすぐに流れなくなったニュースである。
  ぼくが事件をノートへ纏めた翌日、彼は後にそれをこう追記した。
  もし最近の番組、芸人になんだか違和感があるな、とか
  ある商品のCMがやたらと増えたなというときこういうものが関係している場合がある。

〇綺麗なキッチン
  ナエごん――彼女の証言も、同じように、やはり理由はわからないがウシさんがキレた、というものだった。
ナエさん「えぇ、ほんとに、和やかにお菓子、クッキーや、ケーキを食べながらお茶を飲んで、のんびりと会話していたの」
ナエさん「いつかみんなで個展とかいいわね、みたいな」
ナエさん「途中、中盤くらいから《おせっかいおばさん》が特にキツく当たられている感じはしたけどね、」
ナエさん「理由になりそうなものは私から見ても、特にはない」
ナエさん「天気とか、野菜や、くだものの木の時期の話とか――当たり障りない会話ばかりだったから、余計に絡まれている理由がわからないわ」
エレイ2「なるほどね。ありがとう。 少し、相談があるんだが・・・・・・」
  彼、は話を聞くとすぐにナエさんの耳元で何かを相談する。
ナエさん「なになに? ・・・・・・うんうん、わかったわ」
  しかし男女比率同じなはずなのに、
  ぼくだけが浮いてるようななんて思いながら、ぼくはそれを見続けていた。
  此処に、必要なのだろうか・・・・・・なんか空しい気分になってくる。
エレイ2「きみにこの役目をさせたかったんだけどね」
  彼は急に、じっとぼくを見て話しかけてきた。
瑞「え?」
エレイ2「さすがに、そんな無理をさせると傷を抉らないかと心配したんだ」
瑞「はぁ・・・・・・」
  ナエさんがお手洗いを借りてもいいかと彼女に聞く。
  彼女は案内にむかい、ナエさんも廊下に出ていった。

〇おしゃれな廊下
  やがて――――
ギャルナエさん「じゃーん!」
  と出てきたナエさんはいつの間にか、やけにハデなメイクになっていた。
  ギャル・・・・・・?
  来たときの清楚感と別人みたいだ。
ギャルナエさん「ど?」
エレイ2「うん。一度その格好で外で、弁当買ってきてくれないか?」
  彼は真顔だ。
  ぼくは、ただ感動していた。
  彼女は、ぱちぱちと手を叩く。
ギャルナエさん「嫌だ、私はおかずを買いたいんだ。お弁当なんか買いたくないんだ!」
  そこかよ! と、思わず突っ込みたくなったがやめておいた。
エレイ2「おかずは知らんが、ナエごん、行ってらっしゃい」
ギャルナエさん「いってきます」

〇綺麗なリビング
  ナエさんはハデメイクのままで階段を上がっていく。
  二階にはウシさんが居る部屋がある。
  彼女が何かしにいった間、彼が説明してくれた。
エレイ2「派手、というならきみの蒼い『けもみみ』だと思ったんだが・・・・・・さすがにね」
瑞「なるほど、ウシさんを試すのか」
  確かに、身体についてさんざん言われ続けてきたぼくには、改めての批難はキツかったかもしれない。
  『けもみみ』と暗号的に言われると少しなんだかモヤッとしてしまうけれど、甘んじて受けるしかないのだろう。
エレイ2「今日次第では、改めて集まるかもしれない」
  彼は言う。
   今日でウシさんが何に怒るかが判明するのなら早いのだが・・・・・・
エレイ2「そのときはお茶会に参加していた他の人を呼びたい」
エレイ2「見つけやすいように、その写真を送ってもらってその格好で外まで来てほしいんだ」
  彼が、彼女に言うと、わかりましたと頷いていた。
  二階からは「びっくりした!」
  という声がした。
  けれど、そのくらいで、
  ギャアア! とか期待するようなリアクションも聞こえなかった。
瑞「だめっぽいね・・・・・・」
エレイ2「みたいだな」
  ぼくと彼は口々に言った。
  派手なだけではウシさんは機嫌を損ねていないみたいだ。
  しばらくして戻ってきたナエさんは言う。
ナエさん「今ウシさん、ベッドで寝てて、なんかすごく機嫌は悪かったんだけど、」
ナエさん「私が何かしたかって聞いたら『気にしなくていい』って・・・・・・」
ナエさん「怒っていたって私たちに関係ないといえば関係ないけれど、確かに気になるよ。 理由がわからないもの」
エレイ2「見合いをすすめたがるおせっかいおばさんには、突っかかっていたが・・・・・・」
ナエさん「私も、勧められました」
  彼女が、小さく挙手する。
ナエさん「えぇ、私も。まあ挨拶がわりの軽い話題として流されたけれどね」
  そういえば、と腕を見ると、ナエさんのくまちゃんは黙ったまま彼女の腕に収まっていた。何か、思っているのかはわからない。
婦人「途中、キノコマイスター・舞の話になりましたね」
ナエさん「あぁ、あったあった!」
  彼女ら二人は何やら意気投合する。
ナエさん「キノコマイスターの服、candyにコラボ追加されたじゃない?」
婦人「え、そうなんですか、あの駅前のお店・・・・・・」
  『キノコマイスター・舞』は、危ないキノコと日夜戦う少女戦士のアニメだった。
  ちなみに牡牛座。好きな食べ物はキノコではないらしい。どうやら作品をウシさんも知ってるらしくて盛り上がったとか。
  『キノコマイスター舞』がどこからか俊足牛に乗って現れて、
  危ないキノコをぶったぎるというシンプルな構成が年齢を選ばなかったのかもしれない。
瑞「結構打ち解けた雰囲気なんですね」
  ぼくが言うと、彼女らは頷いた。
婦人「えぇ、案外アニメとかにも興味を示されるみたい。わりと気さくなの、普段は」
  人は見かけによらないらしい。

〇綺麗なリビング
ウシさん「まだ騒いでるの!」
  声がした。
  どうやらウシさんが降りてきたらしい。
ウシさん「私ならなんでもないから早く帰りなさい」
  案外に落ち着いた声でウシさんは諭した。
  ナエさんと盛り上がっていた彼女はここぞとでもいう勢いで質問する。
婦人「フラワーアレンジ教室はどうするんですか? 地域のデザインフェスティバルに出すのとか、みんな楽しみにしてます」
ウシさん「あれはやらないよ。もう断念するしかないんだよ、わかっておくれ! さああんたらも帰って」
  地域であるデザインフェスティバルは、皆がそれぞれ作ったりデザインした品を販売、購入できるイベントだ。
  都会より規模は小さいが、それなりに続いており、『彼』も人形、作品に使える素材などを見て回ったりするらしい。
婦人「急に中止になったり、急に、ウシさんがお茶会を閉めたり、みんな心配してます!」
婦人「『お節介おばさん』だって、見た目は少し派手かもしれない」
婦人「でも誘いを断る数は多いと言っていましたよ、見た目だけで判断されたくないからだと」
ウシさん「フン、だったら、あんたこそどうだ、清純派ぶる輩なんかむしろ身持ちが固いわけがない」
婦人「なぜ、そんなことを」
  彼女は、いきなり振られた話題に困惑していた。
ウシさん「実はいろいろ経験していたりしてね」
  ウシさんはまるで場の空気に気がついていないようで楽しそうに語っていた。
ウシさん「若いし? 美人同士は余計なこと言われないからつるんでいて楽だとか、思っているんでしょうね!」
  彼女は不本意なようで、硬直してしまいそうな雰囲気を纏いながらも、どうにか言葉を紡いでいた。
婦人「そっ、そんな風に私たちを、見てたんですか? ウシさんは確かに年配ですが、」
婦人「だからって浮いたりしないようにみんな気を遣ってくださって・・・・・・」
ウシさん「ああやだやだ、意図の裏側が見えるというのかね?」
ウシさん「ここでこんな風に話したら、こんな風に振る舞えば、印象がよくなるとかそういう計算する女しかいない」
  皮肉にしても、ちょっと突っかかりすぎじゃないか。
  ウシさんの人生に一体なにがあったんだろう。
  ぼくはそんなことを考えながらも彼女への攻撃を止められずに狼狽えていた。

〇おしゃれな廊下
  彼は彼で、ぼくを廊下に呼んだ。
エレイ2「怒りの矛先が変わったが、ウシさんが前々から持っていた価値観が原因のひとつでもあるという点もあるのかもしれないな」
エレイ2「ナエさんのときもそうだ。 恐らく、服装や振る舞いが派手かどうかではない」
  と、早口で話す。
  確かに彼女(ナエごん)は、見事に派手なギャルに扮していた。
  着ていた服も今回に備えて派手な柄スカートを『彼』から持ってくるよう事前に言われていたようで
  中に着てきたものをトイレで着替えたらしい。
  言われることはなんとなくわかったが、一応確認で聞いておく。
瑞「つまり」
エレイ2「『怒り』と、『派手』自体には因果関係はないかもしれない」
エレイ2「みんなが理由がわからないのは、そこについて、なにかワケがあると思い込んでいるからだ」
エレイ2「お茶会の話を聞く限りも、途中まで和やかな時間だった感じがする」
エレイ2「会の開催自体には問題はなかったのだと思うから、個人自体に前々から恨みがあったわけでもないかもしれない」
エレイ2「だとしたら呼ばないからだ」
瑞「または、ウシさんが休めばいい」
  だとしたらお節介おばさんを此処に呼び出したところで、それだけで彼女の怒りは解決しないだろう。

〇綺麗なリビング
  部屋に戻るとウシさんが「あら、まだ居たの」というふうにあきれていた。
瑞「あの・・・・・・」
  ウシさんに、少し言いすぎじゃないかと口に出しかけたが、どうにか留まった。
婦人「心配しないでください、あれはちょっと辛口なだけの批判ですから」
  彼女が申し訳なさそうにそう言ったからだ。
ウシさん「本当です、ここへきてわざわざ嫌がらせする貴方がたと同列にしないでください」
  ウシさんも頷く。
ウシさん「ほんと、あの方は常識がない。何年も前から利用してきたうちの山のことまで持ち出して!」
  ウシさんはやがてぶつぶつ、呟き始めてしまった。
  フラワーアレンジのための素材となる植物を取りに行く場所があちこちにあるというようにウシさんは語っていたが
  もしや、それが鍵のひとつなのだろうか。
エレイ2「山について言われたんですか」
  彼が、ウシさんに確認する。
  何か思い出したらしくウシさんは強い口調で叫んだ。
ウシさん「許可なら取っている! あの女から言われるようなことはない!」
ウシさん「あの山も、この山、どれも同じ自然なのだと以前から言っています。 茶会にも居た口でよく言える」
  五年近く続いているのに、少し前、三年目程に入ったお節介おばさんから
  勝手に山に入るのはどうかと『今更』言われたらしい。
エレイ2「なるほど、怒りの原因はこれか」
  彼は一人納得する。
エレイ2「しかし、許可を取っているかどうかでそれほど激昂しなくても。・・・・・・失礼ながら、心当たりがあるのでは?」
ウシさん「あんたたちこそいきなり来て嫌味だよ! どの口が言ってるんだ!」
  今度はぼくらに飛び火した。
婦人「それは、ウシさんが心配で!」
  彼女が慌てて付け加える。
ウシさん「貴方、いつもそう一番失礼だと思わない? あなたが言う『前野』さんの名前も覚えず、逆らって、決めつけて」
  ウシさんの攻撃が再び始まる。彼女はピタリと身体を硬直させた。
ウシさん「あの人は偉い人なの! あなたが愛想しておけば山のことくらいもっとどうにかなるはず、みんな思ってるわ。ね、簡単でしょう!」
婦人「私には、向いていません」
  彼女は、血の気が引くような、少し白い顔になっていた。
  想い、を受け止めるというのは本当に理解し難く恐ろしいことなのだろう。
婦人((向いてないのに、しなくちゃならないんです))
ウシさん「あなたがちゃんとしてくださらないから、他の女がスッと持っていくわ」
ウシさん「私、少し前に買い物の途中見たのよ、角のとこにあるラーメン屋に彼と女が居たの! あなたがふらふらしてるからじゃない?」
ウシさん「山の危機もあるのに、あなたが近くに居て、どうしてこんなことが起きたんでしょうね」
  少し待っててくれといったウシさんは、一度部屋に戻り
  すぐに『写真』を持って戻ってきた。
ウシさん「あなたが、だらしないから起きたのよ、わかる?」
ウシさん「挨拶されたら挨拶を返す、誤解されるようなことはしない」
ウシさん「彼に、会ったときね。 あなたがかまってくれないからだとおっしゃっていたわ、あなたはつまらないと」
婦人「あの、私・・・・・・」
  彼女は狼狽えたままぼくらを見た。別にふしだらという風な誤解はしていないので、
  大丈夫だという意味で真面目な顔を見せるにつとめた。
  頭が真っ白になった彼女にはそれすら意味を為さなかった。床に座り込んで叫ぶ。
婦人「許して・・・・・・許してください! どうか、どうか許して。私、愛されなくていいんです、そんなもの要らない」
婦人「小さいかもしれないけど代わりに土地を買えるように頑張るから、だから」
婦人「恋だとか、フリンダとか、もう見たくない、聞きたくないです、ごめんなさい」
ウシさん「あなたに出来るのは、愛想よく笑うことです。身を粉にするより早いじゃない」
ウシさん「どうしてそんな不必要な苦労をさせる必要があるの、挨拶ができれば済む話でしょうに――あーぁ、あきれた」
  ウシさんはウシさんで、大袈裟にため息をついて呆れて見せた。
ウシさん「滅多にないことよ? わかる? 滅多にないのこんな縁談は!」
ウシさん「そう、もとはといえば、あなたが愛想よくし続ければ何もかもが平和に営まれる」
ウシさん「あなたは考えようによってはそれだけの、恵まれた、とても、妬ましい、そういう立場よ」
ウシさん「周りからしたらぶん殴ってやりたい」
  ウシさんはぶん殴りたそうに、本当に拳に力をいれて握りしめた。
ウシさん「私がもーぅちょっと若かったらねえ! 本当、愛想笑いも挨拶も出来ない、お人形さんなんかに引っ掛かってあー、可哀想な旦那様よ」
  彼、が動いた。
  目の前に出てぐっと腕を掴んだ。
  
  
  ――彼女ではなく、ぼくの。
瑞「え?」
エレイ2「だめだよ」
  何が、と聞こうとしたけれど、彼は何も答えず、代わりに
エレイ2「ここは任せて一旦顔を洗って来るといい、かな」
  と、耳打ちしたのみだったので理由はわからないながらに、ぼくもそうすることにした。
  今この場に居るのもいたたまれないとは思っていたところだったからだ。

〇おしゃれな廊下
  洗面所を借りることを伝え、探して廊下を歩いていると、やはり途中に居るヴィーナスを気にしてしまう。
  綺麗なドレスを着ていた。
瑞「・・・・・・っ」
  (ときめいてなんか)
  ときめく。
  それは生きている人間のときには感じもしない特別な気持ち。
  ドキドキと脈打つ心に強引に気がつかないフリをする。
  こんなところを見られ怪しまれたら病院行ったら? と言われてしまいそうだ。
  ガラス越しにそっと相手を眺めた。
瑞(とはいえ恋という病気は、病院では治らないらしいけれど)
  と、考えた途端、今度は先ほどまでの光景がすぐに脳裏に甦ってきてカッと頭に血が上るような衝動が沸き上がる。
  心は反対に急速に冷え出した。
瑞「あぁ、もう、さっさと洗って済ませよう」

〇白いバスルーム
  そのときを誰も見ていないということを改めて確認すると、トイレのそばの洗面所に向かう。
  ふと、目の前の壁にある鏡を見た。
瑞「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
  怒っているようでもあり、死んだような目をしてる。
  なるほどな、と思った。
  こんな表情で、あの場に居るわけにもいかない。
  ぼくは《動かない身体》が好きでそういう本もよく読んでいる。
  『温かくない、そこが暖かい』という名句は知られていると思うけど、つまりそうだった。
  冷たいことが、冷たいとは限らないし、あたたかいことが暖かいとも限らない。
  ぼくにとってきっと生きていることが、生きていない。
  彼女もそうなのかもしれない。
瑞「お人形さん、か」
  生きていることは、何だろう。
  
  そんなことを思わず考えずに居られなかった。

〇綺麗なキッチン
  彼が居なくなった後、どう止めたものかと悩んでいたがしかしそれは長く続かなかった。
  結局客?の前だと今さらながら把握したらしいウシさんは改めて二階に戻って行ったのだ。
  その後、彼女は言った。
婦人「見苦しいところをお見せしました。本当はウシさんに、引き続き会を任せる考え、私は反対なの、あの調子でしょう?」
婦人「最近ますます怒りっぽくて。 ウシさんが買い物に行った日なんかに、参加された方にも聞いたの」
婦人「でも立候補に反対がなかった。 そもそも、周りがどうこういうことではありませんが・・・」
エレイ2「きみには常に逃げ場が無いのだね、よく保っていると思うよ」
  僕が素直に述べると彼女はぺこりと一礼した。
婦人「ありがとうございます、これでも大分、限界が近いのだけど、奇跡です」
婦人「お茶会自体が、あれじゃあストレスだから。一人会もいいけど・・・・・・」
ウシさん「いいかげんにしなさい!」
  二階から怒鳴り声がした。
  ウシさんが下の様子を見に来たらしく、どたばた降りてきたのだ。
ウシさん「みんなから言われてるのに、そんなこと言って! 遅れてきたあなたが席を動かないから混乱が起きてみんな困っている」
婦人「席? 席って、そもそも、なんですか? いつから私の部屋全部あなたがいつでも客を呼ぶ部屋になったんですか?」
婦人「ウシさんは、来ているだけでしょう。あの日も、いつも通りに部屋の掃除や片付けをしていたら、」
婦人「いきなりチャイムが鳴るわ、お茶の準備だわって!」
  もともと彼女の借りた家に、病院通いが近いからと臨時でこの部屋に来始めたウシさんがすむようになったらしい。
婦人「ときどき9時間くらいフラワーアレンジの教室に部屋を占拠される!」
婦人「部屋で行うはずの予定もその度にいつもずれ込んだの、我慢して来たんですよ」
  ウシさんははきはき答えた。
ウシさん「私は、展覧会が大事。だからみんなもを私を選ぶ!」
ウシさん「最も年この家にいることを理由に臨時で長に就いて、」
ウシさん「一方的に、独自の選出方法で、自分1人、勝手な立候補を表明?」
ウシさん「自らを選ばせる方針を宣言したって、笑っちゃう、あは、あははははは!」
ウシさん「みんな「いいかげんにしなさい」と言ってたわ」
ウシさん「いつもなら15~20分の挨拶や支度だって、あの日はいつも通りに始まるのに9時間以上かかった」
ウシさん「急がないと間に合わないといってたときに!」
ウシさん「私が入院したりした空いた席に、長い間ここを守っている人を臨時的に置くのはいい」
ウシさん「でも、あの日は違う」
ウシさん「あなたのせいでみんなと協議して「事故が起きた」ってなったから混乱を招いた」
  最終的には、彼女以外の全員の総意で2番目に年長者を置きましょうという話もしたらしい。
  彼女の意思は存在しないようなものだった。
  ちらりと見た彼女は、もはや開いた口が塞がらないという感じで、どうにも出来ず固まっていた。
ウシさん「だからね、あなたいい加減にしなさいね? この写真の女以下なのよ?」
ウシさん「挨拶も出来ないわ、恵まれても感謝も出来ないわ、すぐ誰彼話しかけにいく! 年長者の言うことも聞けない!」
婦人「そ――そこまで、私が、悪いことをしましたか? どんな悪いことですか?」
婦人「それはどういう罪なんでしょうか、私は、ただ自分の部屋くらい好きに使いたいだけです、どんどん狭くなっていきます」
婦人「マエノスベテだって、なぜ、他にあちこちで付き合いながら私のもとへ来るのですか、」
婦人「私は彼が羨ましい、あなたが羨ましい、なぜ私は他人とも話せず、」
婦人「どこへも行けず、しゃべることも笑うことも、批難されるのでしょう、なんのために生きるんですか?」
  彼女はすぐに、はっ、と気がつき、戸惑った表情になる。
婦人「ご、ごめんなさい、私、年配者と口を聞いてしまった!! あぁ! 独り言です、これは、聞かなかったことにしてください」
  余程思わずだったようで慌てて口を押さえて、二階へと上がって行く。
  なんだか現実のこととは思えなくてぼんやりと聞いていた僕も我に返る。
エレイ2(・・・・・・)
エレイ2「ウシさんは、《彼》のお知り合いなんですか?」
ウシさん「あなたには関係がない、早く、帰りなさい」
  今、彼女は平気だろうか?
  それが気がかりだったがウシさんがかなりイライラしているので長居は出来なさそうだった。
  押されるようにして、廊下に放り出される。

〇おしゃれな廊下
  後ろ、さっき出てきたドアの向こう・・・・・・の上の階だろう、
  頭上からバタン、バタン、と暴れるような鈍い音が何度か聞こえてくる。
  二階だ。
  それと、近くで叫び声がしている。
  なんだか懐かしい気がした。
「人生を終えてくれ! 人生を終えてくれ! 人生を終えてくれ! 頼むから!」
「人生を終えてくれ! 人生を終えてくれ! 一生を終えてくれ!」
  近くで叫び声がしている。
  なんだか懐かしい気がした。
  
  恐らくそれはウシさんの声だった。
「あれ?」
  ふと声がかかる。
  さっきまでの修羅場と対極的な、朗らかさの少年のものだった。
エレイ2「瑞、なんだ、廊下に出たのかい、ってなんか緊張してる?」
瑞「あぁ・・・・・・そう、かな」
  彼の、ふわふわした髪が帽子で押さえつけられているのが少し惜しいと思った。
瑞「さっきはありがとな、外の空気が吸えてよかった」
エレイ2「外、か」
瑞「どうかした?」
エレイ2「そうらしい」
  天井に目を向ける。
  未だにばたん、ばたん、と暴れる音がする
瑞「あれ、ナエさんは?」
  言われて、振り向くと、確かに、いない。いつのまに。
  というかどこ行ったんだろう。
エレイ2「さあ」

〇郊外の道路
  途中から着信があった為、『私』は戦場から抜け出して、ささっと外へ出ていた。
  挨拶しようと思ったが、そうは行かなさそうな様子だった為、
  何も言うわけにはいかなかったが、
  まあ、彼は頼りになるから、きっとどうにかするだろう。
  そんな曖昧なことを思った。
  彼に一応の礼儀でメールはしておく。
  「いえー! のっぴきならねえ用事が出来ました。あとはよーろしくぅ★」
  これでばっちりだ。
  携帯の電源を落とし、私はドアを開けた。外はこの時期にしては晴れていたが寒かった。
  辺りに特に車や人がいないのを確認した後に連絡された場所へ足を向けるべく、少し坂を降りた場所の横断歩道をわたる。
  煉瓦のあしらわれた壁に、えらく近代的な信号機がついている不思議な空間だった。
  ピンポン、と音がなったのに従い、前へ進む。
  時間を待つ、という行為は案外忍耐が必要で私は好きじゃない。
  渡る、というより、渡らされる。管理されている自分を感じる。
  秩序とはそういうものだとしても車が居ないこの瞬間律儀にそれをこなすのはただの習性だろう。
  もちろん忘れず腕に抱えたままのくまさんは、昔の事件の話をしていた。
ナエさん「ええ、そうね・・・・・・」
  私は相づちを打つ。
  目の前のトラフィックサインが思い出させる事件。
  密輸事件。
  模様。
  キルト(quilt)という布は、ときに奴隷を逃がす合図に使われた符号を含んでいた。
  十字路を曲がる。
  クロスロード。
  『オハイオ州のクリーブランドで待ち合わせましょう』を意味した。カナダに逃げるとき、そこの湖が拠点にされたという。
  生活に混じる模様や柄が、実は『何か』ということに私たちはあまり気付かない。
  大きな事じゃなくとも、たとえば立て掛けるだけで救われる未来もあった。
  ただ描くだけ、創るだけで、ガラリと変わる世界もある。それはとても凄いことで、過去の誰かがしてきたこと。
  裕福な自己顕示欲だけが芸術ではないことを私もかつて知ったのだ。
  だから私は今日も『彼』を抱えていた。そして、こうして今も動いていた。
  
  あの子は、元気だろうか?

〇総合病院
  『私が言うだけでは説得力に欠ける、ところが辞書を引いて読んで聞かせると社員の納得感がぐんと高まる』
  『しかもお互いに共通した認識を持てる』
  は、ホンダカーズ中央神奈川の相澤賢二会長の言葉らしいけれど、
  辞書をコピペに変えると、多様な意味合いを持ちすぎてしまう。
  やはり、辞書は辞書だ。
  意味は意味。
  定義だから、力を持つのだろう。
  そんなことを考えながら、細い道を何度か右折、左折していた。
  何度目かに曲がった壁に、風船が描いてあった。
ナエさん「最近、増えてないか?」
  まあいいや、あとであの子に報告しよう。
  呼ばれた場所は、ある国立病院・・・・・・の隣にある隔離病棟の跡地だった。
  その場所は最近ではある程度改装されて小綺麗なホスピスみたいになって来たらしい。
  とはいえあまり人が訪れる場所ではない。
  
  くまさんが私を見つめて話した。
  「そうね、きっとそうね」
ナエさん「そうね、」
ナエさん「きっとそうね」
  病院に付いた途端、目的地はあとわずかというのを変に意識したからか歩いているうちに、少し喉が乾いてきた。

〇病院の廊下
  病院には大抵自販機があることを私は知っていたので、
  足早に中へ向かうとここも例外でなく、設置されたそれのひとつからお茶を購入。
  それを持ったまま指定された番号の病室へ向かう。
  廊下にはあちこち矢印が張り巡らされて、迷いかけたがどうにかなった。
  個室のひとつのドアをノックする。
  今さらのように来る前に電話してと言われたので携帯を出して見たが
  、電池はいつのまにか切れていたのか、起動できそうになかった。

〇病室のベッド
ナエさん「もしもし、入るよ」
  と、開けたとき、その子は、普通に鞄の荷物をまとめていた。どうやらこの部屋から出るみたいだ。
  節電のためか、部屋のなかは薄く暗い。
  なにか気配を察してから、その子がちらりとこっちを向いた。
クマ「うわー! わわ! アポってよ!?」
ナエさん「ごめん、電池切れてて」
  しょうがないな、とその子は、
  鞄から出した充電器を渡してきた。
クマ「熱くなりやすいから極力燃える!使っちゃだめって白の充電器使ってみて!言われた! ちょっとなら平気やねん」
ナエさん「・・・・・・ありがとう」
クマ「早いねっ。やっぱり走ったに? びっくりだよねですよ、私はです」
ナエさん「ここ、充電してもいいのかな? まあいいや、つけちゃおっと」
  白いふわふわした髪と綺麗な瞳の子。
   言語を制御するとこがなんかどうにかなってるらしくて、会話は大体こんな感じだ。
  椅子に腰掛けたままここに来るまでの間の話をする。
クマ「それはそれは、きっと、見てみたい! 答えだね、それが」
ナエさん「理由が答えられないことってたくさんあると思う、それを解き明かすエゴは美談じゃないと思うの。でも」
クマ「キャフフフ! そうも、いってられない理由がですね、あるんだかも?」
  その子は、愉快そうに笑った。
  それだけなのになんだか酷く現実から解離したような、ふわふわと幻想を漂うような気分にさせられる。
ナエさん「ええ、そうなのよ。あと、壁にお絵描きしてる人、探してるんだけど、知らない? あなたのライバルとかじゃない」
クマ「ライバル? ライバル、ね・・・・・・張り合いなんか、それ、相手に寄生して、です」
クマ「相手じゃん、だから、私じゃない、既に! それが不快だから作らないよ。のんびりね、キャフフフ!」
  その子は、ここに来る前は――元気な頃は筆を折った、芸術家だった、何か、らしい。
  詳しくは知らないけどもしかしたらと思ったが、ニヤニヤ笑うだけだった。
クマ「下を見ると、きりがない、きりがない、惨め、キャフフフ!」

〇荒れたホテルの一室
  その部屋は荒れていた。
  どうにか元の家具の配置は想定出来るが、服や小物が散乱していた。
  勝手ながら二階の一室のドアを開けたとき、ウシさんと彼女が何やら向かい合って話をしていたようだったが、
  彼女の方は、魂が抜けたようにぼんやりとしている。
ウシさん「人を好きになるなんて誰にでも出来る、簡単なことなのに・・・・・・コストパフォーマンスで選んで恋愛から逃げてるだけよね?」
ウシさん「でも実際こういうものはね、不利益も付き物なの、綺麗事じゃないのよ」
ウシさん「どうしてあなたはいつも逃げるの? そうやって逃げて失礼だと思わない? こんな簡単なことから」
  彼女は聞いているのか居ないのか、ただ、ぼーっと頷くのみだった。
瑞「もう、やめてください」
  部外者の癖にだが、思わず部屋に飛び出していた。
瑞「それは間違っています。 誰でも出来ることじゃありませんよ、人なんか好きになる方が難しいんです。ぼくだって、そうですから」
ウシさん「いきなり入ってきて、なんですか」
  ウシさんは驚いてはいたが、騒いだからと少し予想できていたのか、案外に冷静だった。
瑞「たまたまあなたに簡単だっただけのことで、追い詰めても何も得はしません」
瑞「それに誰でも出来るなんて言葉を使うのは、恵まれた富裕層だけです」
ウシさん「ハハハ。あなただって、居るじゃありませんか」
  ウシさんは、急に高い声で笑った。ぼくの後ろ、を見て。
瑞「・・・・・・・・・・・・」
  ぼくが、なんとも言えない表情のまま、彼を見ると、彼は項垂れたまま
エレイ2「またかぁ・・・・・・!二回目かぁ」
  と嘆いていた。
ウシさん「あなたたち、いい加減にしないと。いつでもLEDライトにつけたカメラが見ていますからね!」
  ウシさんが声を張り上げる。
  頭上には丸く光を放つ電灯があった。
エレイ2「僕らは何もしていない」
  彼が肩を竦める。
エレイ2「まあ、騒ぎは勘弁かな。 ウシさんが知っての通り、僕はあまり僕のことが公になりたくない理由があるんで」
  最近の監視カメラは良くできていて一見それとはわからないものが多く出ていた。
  世間では防犯グッズとしてつい最近も、電気型カメラが発売されていたばかりだったが、
  その写真ではカメラ部分が大きくてそれとわかりそうな作りだった。
  しかしこの家のカメラはよくできていたのか、じっとみてもなかなかそれとは思わなかった。
エレイ2「しかしよくできていますね」
  彼は関心しながら言う。
  心から感心しているみたいだった。
エレイ2「確かにこの部屋、一見それとわからないですがあちこち見通しが良さそうです」
  なにかを思い出したのか、クスクスと笑っている。
瑞「な、どこの部分?」
  ぼくがさりげなく訪ねると、彼はそれを言うと面白くないなどと答えただけだった。
  彼の携帯が着信を知らせる。
  失礼、と携帯を開いた彼は、すぐに苦笑いした。
エレイ2「ハハハ、よろしく、ってさ。ま、そんな約束だから仕方ないか」
  すぐに、携帯を持ったまま彼は彼女を手招きした。
  彼女は黙ってやってきて頷いている。
エレイ2「少し、見てもらいたい」
  ぼくが近くに行こうとすると、彼は後でわかると言って拒否した。
  そういえば相談に来た当初、あまりぼくは詳しい部分、二人が何を話したか全て知るわけではないことを今更のように感じる。
  どことない疎外感のなかで二人が画面をのぞき込む。
婦人「そうです、はい」
  彼女はなにかを納得したように頷く。
エレイ2「それは良かった、ひと安心だよ。今日はありがとう」
エレイ2「ではまた後で・・・・・・一時間後に、今度は二人きりで会えるかな、連絡先を聞いていいかい?」
  ぼくがぽかんとしている間に彼は優雅な動作で彼女の手をそっと握った。
  彼女は慌てて近くの紙に鉛筆で、番号を記した。
婦人「はい、此処に」
  それからすぐに放すと、ぼくの背を押す。
エレイ2「帰ろう」
瑞「え? あの、いいの?」
エレイ2「うん。ご馳走にもなったし、これ以上の長居は無理そうだからね」

〇郊外の道路
  帰るときには昼らしく太陽が天に登り始めていた。
  廊下にいる女神に少し惜しいような、また再会したいような気持ちになりながらもなるべくそちらを見ないように務める。
  挨拶をしてドアのを開くと、ふんわりと涼しい風が身体に吹き付けた。
瑞「なぁ、急にデートの約束なんかしてどうしたんだ、軟派な性格と思ってなかったけど。まあ楽しんで来てくれよ」
  帽子の位置を確認しながら、ぼくが言うと彼は真顔のまま、きみも来るんだよと言う。
エレイ2「あれは、ウシさんの前では言葉に出さない形で示し合わせただけなんだ。これから、どうにか夜までに帰るべく行程を短縮するからね」
瑞「短縮? 短縮って」
エレイ2「そうだ。 今から、ラーメンを食べに行こうか」
瑞「おい」
  行き先のラーメン屋として示されたのは近所にある・・・・・・『あの写真の』、つまりマエノスベテと女性が撮られた店だ。
エレイ2「ちらりとしか見えなかったが、ラーメン屋の横、替え玉無料キャンペーンの幟(のぼり)があったんだ。先週までだったらしいよ」
瑞「なんだって、今行っても、替え玉は無料じゃないじゃないか!」
  ぐにー、と頬を引っ張られる。
エレイ2「そうじゃない、日付の特定だよ」
エレイ2「この写真は恐らくウシさんが撮ったものではないからね」
エレイ2「だとしても理由としてあんな罵倒を浴びせられる立場は得ているというわけだ」
エレイ2「写真を撮っていないとなると背後が浮かび上がりやすくなるからな」

〇ラーメン屋
  そんなわけでしばらく歩いて店に向かう。
  ラーメン屋の入り口には、食券の販売機があるコーナーがあり、ここからチケットを購入してレジに向かうようだった。
  あまりこのような場所に来ないので、なんだか物珍しい気がする。
瑞「お金あるの?」
  ぼくははっと我に返り、聞いてみる。
エレイ2「どうせ昼食は外になると見越してたから、持ってきた。君のも払うよ。 あとで返してくれ」
  用意周到だった。

〇ラーメン屋のカウンター
  タッチパネルを押すと、いらっしゃいませ、と丼のイラストが浮かび上がる。
  それを押すと金額とメニューの表が、ずらっと並んで居た。壁にも同様にメニューが書いてあった。
瑞「これじゃただ食べに来たみたいだな」
エレイ2「食レポはしないよ」
  レジで注文をして、箸などをとって向かい合って席につくと、来ていた周りの客がちらりとこっちを見た気がした。
  穏やかに注文を承るレジ側と、雰囲気が、違う。
モブ「事件の・・・・・・」
モブ「ほら、あの子って」
  ざわざわと、席から声がする。いろんな声。
モブ「目を合わせるな」
モブ「あの店行った?」
モブ「俺がこの先輩だったら、殴り付けてますよー、わざわざ、雨の中助けたのに、この後輩なんすか生意気」
モブ「やっぱり、凍らせ過ぎたらほぼ水みたいな味になるじゃない?そしたら甘さが」
モブ「あら、あの子」
モブ「こっち向いてー!」
  耳を塞いでしまいたいのに耐えていると、しばらくして注文が届いた。
  メシテロ小説じゃないのでそのあたりは割愛するが、それなりにおいしかった。
  彼は食べ終えた後、店員が片付けにくるタイミングで替え玉無料の日に来た客について聞いていた。
  いつ撮ったのか、なにかから入手したのか、あの写真を彼が携帯の画面に映して指す。
  このときの店員は頭に黒い頭巾をつけた青年だった。
ラーメン屋の人「あぁ、たぶんそのくらいの日も居ました。俺も居たんですが、女性とその男性でしたら印象に残ってます」
ラーメン屋の人「わりとたまに、此処に来ますよ。独占欲というか彼女大事にされるみたいで」
ラーメン屋の人「テーブルにご注文を置くときに・・・・・・ いや、もう戻りますね」
  彼は最後に、その日付を聞くのを忘れなかった。
ラーメン屋の人「恐らく」
  、と先週の金曜日を示してくれた。

〇郊外の道路
  店から出ながら、彼はぼくに謝ったが、
  ぼくはぼくで彼とでも居なければこういったところに寄らなかったと思うことや、新たな経験になったということを告げた。
瑞「殺人犯と同じ席と言われているよりは、マシな気分だよ」
  彼は、じっとぼくを見て、少し悲しそうな目になった。
エレイ2「あれは、きみが、殺したわけじゃないだろう」
瑞「櫻さんは、ぼくが殺したと言った。ぼくは、殺したんだよ」
  帽子がちゃんとかぶれているか確認しながら、息を吐き出す。
  近所に住む櫻さんという作家をしている女性の父親を――ぼくは殺している。
  もっとも、それは短くまとめた結果であるのだけれど。
  今ぼくの隣に居る彼の巻き込まれた『誘拐事件』と、何か繋がりを持っているある組織と関わっていたのが、その父親だった。
  この街は、その櫻さんたちが多くの土地を持っていたから、それからはあちこちから恨まれている。
  
  ずっと。
エレイ2「逃げ出した、だけじゃないか、それに」
瑞「君がわかってくれるならいいさ。でも、今の、この現状は、みんなぼくを避けているじゃない?そういうことなんだよ」
  正義とか悪とかじゃない、何か。事実は事実。どうにもならないだろう。
エレイ2「謎が、解けなきゃ、もっと多くの人間が殺されていた」
エレイ2「僕も、死んでいたかもしれない、 僕は、正直櫻さんがきみをどう言おうと別に構わない」
瑞「なんでそんなに、必死に言うんだ?」
  彼がやけに困った顔になるのでぼくは逆に、穏やかに笑った。
エレイ2「どんな理由でも、誰かは死ぬよ」
  櫻さんの声を、微かに思い出す。なにを、言ったかまでは、よくわからなかった。
  ぼくは、ただネタにされているどころか、櫻さんには執拗にネタにされているのだが、これもこの憎悪が背景にあるみたいだ。
  少し前に見かけた彼女は
  父親殺しの主人公の小説や、西尾市で起きる誘拐事件をテーマに、新シリーズの小説を発表していた。
瑞「櫻さんの恨みは相当なものなんだ。だからこそぼくを常に描かなければ、昇華出来ないという凄まじい暗示にかかっている」
瑞「もはや自分の意思では止めることが出来ない。 出版社側も、それを黙認しているしかない状態なんだと思うよ」
瑞「ぼくを殺すか何かすれば、いいのにな」
  死にたいわけでもないが、誰もが櫻さんの病気を止めるわけでもないなら、もう為す術がない。
  意思ではどうにもならないなら、周りがどうにかするしかない。
  もしかするとネタにされる為に、奴隷みたいに生きろってことだろうか。
  いや、既に死んでいて此処が、ぼくの地獄なのか。
  毎日、毎日、本が増えていく。
   櫻さんの本は、花びらのようにぼくへの恨みがネタになって増えていくのだろうから、
  きっと今、『これ』をぼくが記していることすら、許せなくて、また書いていくのかもしれない。
  比例してぼくの自我は、毎日、毎日、壊れていく。
  櫻さんの恨みが、数年後にはひとつ人間を形成できなくなっているまでぼくを例えば削りとったとき──
  そこに、何が残っているんだろうか。
  こんなワケがあるなんて、誰も思わないだろうななんて言いながら、彼を見上げてぼくはできるだけ明るく言った。
瑞「さてと、金曜日にウシさんがどこに居たのかな、誰かが見てるといいけど」
  さてウシさんの元に行こうかと足を進めようとしたら、肩をつかまれた。
エレイ2「話、聞いてなかったかな? 今から行くのは映画館。デートだからね」
  せっかく金曜日がわかったのにという気持ちもあるが、そういえばそんな約束をしていた。
瑞「そうだったね」
  そんな話をするなかでも、ひよひよと頭上で可愛らしい鳥が鳴いていて、心地よいBGMだった。
  アスファルトの上を踏みしめている間、彼はコンクリートとアスファルトについて熱く語っていた。
  しばらく語った後に間があいたのでぼくは思いきって口を開く。
瑞「そういえば何を示し合わせたんだ?」
エレイ2「これからわかることだよ、そうだな、まず僕が彼女と二人になる。君は隠れていて何かあったときのために通報の用意をしてくれ」
  そのためにぼくを呼んだのか。
  
  少し疎外感はあるが致し方ない。
エレイ2「いや、その前に・・・・・・」
  ちらりと、彼は腕につけていた時計を見た。
エレイ2「うん。約束まであと30分はあるか」
瑞「え?」
  彼は、映画館がやや遠回りになる細い路地へ向けてぼくの腕を引いた。
エレイ2「行こう」

〇入り組んだ路地裏
  二人して人が一人やっと通れるような細い路地を縦になって走った。
  わざわざなぜ走るんだとも思えたが寄り道のぶん距離が増えたと考えると短縮のためなのかもしれない。
  少し行った先で、何かの店先の窓ガラスが行き止まりの役目をし、左右にT字路に曲がるようになっていた。
エレイ2「はぁ、やはり久々に走ると、疲れるな」
  店を背に壁にもたれた彼が荒い息とともに呟く。ぼくはまだ軽く動いたくらいにしか感じず平気だった。
  なぜ曲がったのかを聞く間もなく、彼はまっすぐ左へと曲がって進んで行く。
瑞「映画館なら遠回りだけど」
  ぼくが言うと彼は笑った。
エレイ2「あぁ遠回りしているんだ」
  後ろの方で、サイレンのようなものが聞こえた。
  振り向いて遠巻きに見る限りどうやらもと来た道のほうで、赤いスポーツカーと青いオープンカーが何かあったようだ。
エレイ2「運がよかったな。もう少し遅れていたら、あの渋滞に巻き込まれていた」
瑞「運、というよりも、これは、デジャヴな気がするんだが」
  彼はアハハハ、とよりいっそう高らかに笑った。
エレイ2「鋭いな。そう、マエノスベテのご友人とやらが、こうしてぞろぞろと来てしまうみたいだね」
  ノリノリな感じで腕を絡めて来る。少し不気味だったので、退けようとすると「彼女のフリ」と言った。
  なんて雑な変装だ。
瑞「・・・・・・しかし、ぼくらが隠れなくてもいいんじゃないか?」
エレイ2「いや、あれは、目を付けられてる」
エレイ2「たぶん僕らが出てくるのを待ち伏せしてたんだ」
エレイ2「これからの用事を思うと、なるべく会わないようにしたほうが無難だろう」
瑞「映画館へ遠回りするためにこの道に来たのか?」
エレイ2「それもある、かな。きみ、携帯の電源は」
瑞「通報できるように、つけているけど」
  ぼくの携帯は暴力に合っているので、無理矢理遮断されたりGPSによって雇われたバイトの人に追い回されたりすることがある。
  今の時代、家の住所がわかれば、ネットで検索して家や近所の店を把握しやすいらしい。
  やろうと思えばSNSなどの情報を拾ってグルグールからストーカー出来るよ、
  と彼は冗談混じりに笑う。探偵はしやすいかな、とか。
  つるつるした石畳の上に、先日降った雨で水溜まりが出来ていた。
エレイ2「僕もそうだった。家まで押し掛けてきた犯人もそうやっていたんだろう」
  水溜りが、蒼い空を映して揺れている。
  不安定な気分になっていると彼が付け足すように口にした。
エレイ2「展示した作品の応募のときの名前や住所からおおまかな情報を掴むくらい、わりと簡単なことだ。道徳的にはなっちゃいないけれどね」
  ――彼は何か作るのが好きだった。
  けれどいつしか、作風を見失った作家たちという亡霊に取り憑かれてしまうようになった。
  彼らは手段を選ばず、付きまとい嫌がらせ、強盗に誘拐となんでもやった。
  彼らのいくらかの背後には、政治家や宗教団体があった。
  ぼくが殺した人の背中。
  彼が帰ってきたあの殺人の後宗教団体は一気に減った。
  櫻さんの恨みは、減ることが無いだろうけど。
エレイ2「そういえば櫻さん、最近じゃ、きみに恋をしたという嘘をついて付きまとう理由にまでしているらしいと近所の子が言ってたぞ」
瑞「えぇ・・・・・・恋は、無いだろ、気持ち悪いな」
  まあ、そりゃ確かに黙って付けていたら変だからな。
瑞「警察も怠慢だよな。『ぼく』は殺人犯なのに」
  櫻さんがまさか本当に『親を殺した殺人犯と付き合いたい』というイカレた思考になってしまったんなら
  しかるべきところで診察を受け、ぼくとしては止めるように説得して欲しいところだ。
  櫻さんの背後にある宗教団体連中政治家連中から嫌われているってこと、
  それは万が一があろうと彼女以外は祝福する気ゼロだってこと、早く気がついて欲しい。
  そんなことを考えなんとなくうつむきがちで歩いていると、少し先の方に、破れた新聞が地面に落ちていた。
  『けも耳の研究、すすむ』とかの見出しが踊っている横に、政治家のニュースがある。
  『水山氏、泥酔で暴行』とか、水山氏がまた事件!とかが書いてあった。
  
  夜中に男性につかみかかったとかなんとか。
瑞「・・・・・・」
  政治家から熱烈な祝福を受けている。
  だからわかる、
  この名前の見出しはわざわざぼくの近況を再現し(ぼくの名前を直接出すわけにはいかないため)
  こんな行動は、櫻さんにふさわしくないことについて語るべく作ったものだ。
  ぼくは、確かに似たような状況になった(正確には少し前の日の夜に、後ろをつけてきた怪しい男を捕まえた)ことがある。
瑞「ほら、櫻さん以外喜んでない」
  バカにしたい気分だった。
  親殺しと付き合いたいような人なんか、絶対おかしい。
  ぼくだったら最低な人だと思うはずだ。
  苦しい嘘も大概にした方がいい。
エレイ2「その偽りの好意がある限り、こんな風にみんなに迷惑をかけてる。 一回、注意した方がいいかもな」
  彼は呆れたように呟くと新聞から目を離し、先へと進んでいく。
  櫻さんのついた大嘘(ぼくに好意があるとか)の招いている惨事が世間を賑わせていることについて
  深く語る時間はないわけだが、少なくとも周りの上に立つような存在なのだから、
  その背後全てがその気持ちを受け入れておらず、
  それが社会的に僕が否定されるのに拍車をかけていること、さすがに無視するのも限界がある。
モブ「――おはよう!」
モブ「私、お花は苦手・・・・・・待ってて、今、魚触って手に臭いがついちゃったから、 少し手に香料きつい香水をつけてくるね」
  思わず呑気な声音を思い出し身震いした。

〇開けた交差点
  少し開けた場所に来た辺りで
  電話かけるから携帯を貸してと言われて貸したあと彼はすぐにその場でかけはじめた。
  電話が終わってからも彼は夜までに帰れるだろうか、と改めて心配していた。
エレイ2「彼女は、無事外に出られそうらしい。映画館にどうにか時間通りにこられるようにすると言っていたよ」
  彼が携帯を閉じて、苦笑いをし、ぼくは、そりゃよかったと答え、そのあとも二人、いろいろと会話をしつつ歩いた。
  やがて少し進んだ後、無事巻いたらしい背後を見る。
瑞「よし今のところは、ここに彼らはいないな」
  と、確かめて安堵する。
  『彼ら』は、よほどでなければ、店や住宅街の敷地には入ることができないのだ。
  目立ってしまうし、なにより、迷惑だからなのだろうか。
  車は、幅の問題もあるがとにかくこんな風に、マンションや店があちこちにある狭い路地はなかなか追えない。
  追われてはいても、安全な場所が完全にゼロではないのだった。
エレイ2「まぁ、バイト歩行兵が居るようだけどね」
  彼が、ぼくの肩を小さくつつく。何かを見はる人の目は、通常の人の眼よりも静止時間が長い。
  店の中には居るだろうし、それから・・・・・・
  マンションの影から人が歩いてくるかもしれない。
  車が入りにくい場所、または、入っても逆に相手が不利になるだけの場所をうまく通らなくてはならない。
瑞「ただ出掛けるだけで、こんなに労力を使う日が来るなんて。散歩が日課の小さい頃はまさか思いもしなかったよ」
エレイ2「さすが『いつもより』しつこいな」
  元々、目の敵にされている人たちから追い回される身としては、
  ちょっと人が増えた、くらいなもんだと思いたいのが本心だが、やはり、ちょっとにしても。
  いや、ちょっとじゃないこれは目立ちすぎ。
  こんなに目立ち過ぎるような尾行も、サイレンもおかしい。未体験な域で、立ち止まると足が震えてきそうになる。
  実をいうとこんなだから、ただでさえ出版社に苦情を言いに乗り込むのも一苦労。
  ちょっとの先まで辿り着けるかも危ういのに、「そんなに文句があるなら自分から来てくれたまえ」なんて言うヤツもいる。
  さてどうする?
  前方を見ているとおもむろに店から出てくる老人が携帯を取り出した。
モブ「あのぅ。先週の『帽子』、オーダーしたものですが・・・・・・」
  一見何気ない会話だが、視線はこちらに向いていたのをぼくらは見逃していなかった。
  帽子はぼくのことだろう。
  恐らく事前にそれらしいワードが決まっており、どこか事務所にでも通じている。
エレイ2「ほら報告始まったよ。一旦隠れよう」

〇ビルの裏通り
  彼に言われるまま手近にあったビルの間に潜り込む。
  行き止まりにならないように行かないと。
瑞「二手にわかれるか?」
エレイ2「いや、それは止めておこう、代わりに」
  頭上を指差される。
  ま、まさか。
エレイ2「安心してほしいかな。上はトタンじゃないようなんだ」
  ――彼はにこっと笑った。
  ま・・・・・・しょうがないか。
  
  壁を蹴ってコンクリートの屋根に飛び移る。

〇屋根の上
  あっという間に、街が少し見下ろせるようになった。
瑞「ふいー、到着」
  元気が有り余っていた頃
  ぼくは今ではスポーツにもなってる、屋根を伝いビルとビルの間を飛び回る遊びを、趣味の範囲でやっていた。
  死なない高さの飛び降りや移動はぼくにはリストカットよりも気軽な自傷。
  彼もやがて少しぎこちなく後を追ってきた。
エレイ2「本当きみは、身軽だね」
瑞「褒めてもなにも出ないよ、さて、靴紐は結んである? ポケットの中に飛び出そうなものが無い? 裾は平気か?」
  いつもの癖の確認をするぼくに彼は平気だと言った。
  前方のコースは極めて初心者向けの高さでさほど距離に不安はなさそうだ。
  僅かな水溜まりがあるがあの範囲なら支障がないだろう。下を見る。
  今のところ、人は居ない。まずぼくが先に跳んだ。
  下を見る。
  前方、少し進んだ先で車の配置が始まっているが、まだ後方に至ってはぼくらを見失い追い付いてないみたいだ。
  ちょうどここから右に二つ曲がって隣のビルから降りると、ほぼ人が待機していない、店の駐車場がある。
  ぼくは彼に小さく合図しながら、先へ進んだ。
  やがて彼も後を追ってくる。
  なんだか、懐かしいななんて思った。
  身体が風になったみたいだ、なんだか自由になったみたい。それはほんの束の間だけど。

〇映画館の入場口
  そんな風にしてルートを辿ったぼくらはどうにか追っ手を巻いてから、スーパーに隣接する映画館に向かった。
瑞「しっかし、デートね・・・・・・」
  人を好きになる気持ちがわからないぼくには理解しがたい。
  一緒に出掛けてなにが面白いんだろうか。
  映画くらい一人でも見られる。
  家で「あの子」の横にずっと座って本を読んでいるだけでさえ、いっぱいいっぱいなのだから
  予測の付かない、こんな、広場に出掛けたらそれこそ感情のやり場に困って、おかしくなりそうだ。
瑞「彼女は、こういうこと、あまり好きな風に見えないけど・・・・・・」
エレイ2「そう。だからさ、解決のために、来てもらったんだ。 これは、彼女を一度あの家から離すため」
  彼が冷静に答える。
  あ。なんだ、そういう打ち合わせか。
エレイ2「まぁ、きみと居るだけでも、既に誤解が危なそうだけど」
  彼は髪が長くあと顔立ちも、睫毛が長くてしゅっとしており
  服装も袴みたいなスカートみたいなのをよく着ているので、一見性別を見まがうのだが、
  人嫌いのぼくとつるんでいる理由も、少し、近い部分がある。
  まあワケがあるというやつだ。
瑞「誤解はある意味じゃ救いにもなる、だろ?」
エレイ2「まあ、そういうことだけど、ね」
  お互い、他人を寄せ付けるのがめんどくさいからこそ、こうして気が合い、それらしくつるんでいる。
  彼も肩をすくめる。
瑞「でも、今は、作戦の邪魔になるかもな」
  ぼくは彼を無視してため息を吐く。
  昭和20年代には見合いが七割だったらしい。その辺りは保守したってよかったんじゃなかろうか。
  今さら言っても、無駄だけどね。
瑞「コスパとかいう問題じゃないんだよなぁ、これ」
瑞「ドット画面から、急に画質のいい3Dゲームになって世界観が急に掴むの時間かかるようになったくらい、」
瑞「そう容易い話じゃないってのに、理解できないやつらが哀れだよ」
瑞「電源つけただけで、すぐ動けると思ってんのかね。こっちはどこまでが風景で、どこまでが移動マップなのかもわかりづらいんだよな」
エレイ2「その例えもわからない人にはわからないぞ」
瑞「うー、なんか、飲み物買おうぜ」
  ちなみに、まだスーパーの近くである。

〇ゲームセンター
  ちなみに、まだスーパーの近くである。
  変にデザイン性だけはある建物で、玄関神殿のエンタブラチュアの前でうろうろしていたところだ。
  ついでいうとその奥は、期待を裏切る味気ない自動ドアと、カートがあるコーナーである。
  すぐ外に曲がれば、自販機があった。
  中にもジュースあるだろ、とこの国でつっこんでもさほど意味はない。
  彼は時計を確認する。案外に近道だったようで予定よりも早くついたらしい。
  あと15分ほどの余裕があった。
エレイ2「とはいえ5分前には行く予定だから暇は5分程度かな」
  なんていう彼が、店内入り口近くにあるキカイを指差した。
  『うさぎさんとかめさん、よーいドン!』
  
  と書いてあり、コインを入れる場所がある、アレである。
エレイ2「賭けをしよう」
瑞「・・・・・・今? 奢れないんだけど」
  彼は特に答えず、財布を取り出す。150円ぼくに渡してから、200円を、よーいドン!につぎ込んだ。
  にぎやかな音楽で画面が切り替わる。次に、まず、うさぎさんとかめさん、どっちを応援するかをボタンで選ぶ。
瑞「どうする?」
エレイ2「じゃ、うさぎさん」
  彼が、うさぎさんを選ぶ。
  コースに、実際うさぎさんとかめさんのフィギュア?
  がならんでおり、連動して前進する。
  前方にはゴールがある。
  やがて、画面が変わり、二匹(一羽と一匹?)が、ぴこぴこと動き出した。
  途中の石や、仲間の妨害、様々な苦難を乗り越え──
  なんだかんだで選ばれたのは、うさぎさんだった。
  ちなみに、かめさんも勝つときもあるためこれに動物としての性能は関係ない。
瑞「ラッキーだな」
  ぼくが呟いていると、店員を呼んでください、と書いてあったのを見たらしい彼が何かもらいにいった。
  その間にぼくはお茶を買い、少し飲んだ。
エレイ2「ただいま」
瑞「なんだった?」
エレイ2「大理石のフィリップス・アラブスみたいなおばちゃんが、こんにゃくゼリーと、チョコレートくれた」
瑞「誰だ?」
エレイ2「昔の人」

〇映画館のロビー
  階段から上へ。
  映画館のあるフロアを目指す。向かうにつれ、景色は薄暗くなりつつあった。
  こうして外を歩いていると、とても楽しくて、引きこもる人が信じられないような気がする。
瑞「久々にあんなに巻いたよ。跳べたから、気分がいい」
  家に居たって、窓からラジオ流されたり、嫌がらせ目的の煩い音声を聞かせに毎日現れる人の出現はこばめない。
  窓をのぞけば「早く飛びおりろよ」と外にいる人から楽しそうにすれ違い様に言われる。
  もはや学校の方がマシというものだし、
  家に居なければ外に逃げられるのに。
  いじめやいやがらせは別に家も外も関係がないものであって──
瑞「引きこもりってイメージを わりと世間は勘違いしていると思うんだ」
瑞「まずテレビで見るような、絵に描いた暇人がいじめも受けずに部屋に存在する状況が、起こり得ない、安全な部屋なんか無いんだ」
  彼は、しばらくなにやら携帯を操作していたがそんなぼくの独り言に、ふと、なるほどと言った。
エレイ2「なるほど、メディアが作った、なまぬるい『引きこもり』が、普通現実に存在するわけがない、そういうことだね」
瑞「もしぼくが部屋にいたって部屋で遺書なんか書く暇、いや書く気力すらギリギリというところだよ」
瑞「実際、窓際に誰かが潜んでいないかとか、盗聴に合ってるんじゃないかの方が気になるし、わりと撮影されてるからね」
瑞「部屋にいようが「自由」の範囲は通常の人より狭いわけで・・・・・・」
  パンフレットが並べてある壁際の区画で、すー、はー、とやけに深呼吸しているスカート姿の女性を見つけた。
  具合でも悪いのかと近づいてみるとやはり『彼女』だった。
婦人3「少し、落ち着かないです・・・・・・」
  彼、が話しかけに行く。
エレイ2「こんにちは。こられていて、よかった」
婦人3「はい・・・・・・あの」
  彼女はぼくの方をちらりと見たが、「彼は協力者だから気にしないでいいよ」と彼が言うと納得したように微笑んでいた。
  しかし額にはうっすらと不安や恐怖がにじむ。
  恋愛に対する甘い気持ちからでも彼に見惚れているからでもなく
  感情を表す、自由な意思で動く、というものを求められるこういった状況はともすれば発狂してしまうようなものだった。
  彼女は、少しだけ、ぼくと似ていた。
  今考えていることも、きっと早く帰りたいということだろう。
  意思や自我を許されない感情の檻から、少し出されたところで腸が煮えくり返るだろう。
  中身のない自分の自我の脱け殻を褒められるという不気味。
  自分にすら操り用のない、壮絶な嫌悪。
  ここまで、来られて、本当に、よく頑張っている。
婦人3「先ほど」
  と彼女は言った。
婦人3「実はなえさんが来られて・・・・・・『今日は、一緒に居るといいよ』と、くま様がついて来てくださったのです」
  やがて彼女の手にしている
  ファスナー付きの、かご風のトートバッグから、
  ひょこっと、無表情な彼が現れ、こちらをじっと見ていた。
  「・・・・・・」
エレイ2「頼もしいな。くまさん、今日はよろしくお願いしますね」
  彼が小さく会釈する。
  ぼくも同じようにした。
  彼には『声』が聞こえないはずなのだが何か思うところがあるのかもしれない。
  自分のことでないにしろ、少し、嬉しいような気分になった。
  当のくまさんはというと、じっ、と視点を変えもせず、
  前を向いているままいつも通りに微笑み、そして、僅かな人にだけ聞こえる声で言う。
???「しかしここ、暑いな。やっぱり人口密度が高いっていうのかね」
???「あの子はあの子で、やることを遂行中だとそこの長髪に伝えて欲しい」
瑞「――わかった、あのさ」
  と、ぼくは彼、にそれを伝える。
エレイ2「どうして、それを?」
  彼は、不思議そうにした。
  はたから見るとぼくの独り言にしか見えない。
瑞「えっ、あ、あぁ、あの、たまたまあの家で二人になったとき、言われたんだ、今、思い出した」
???「ふ。あはは、あははははっ! あははは!」
  と、くまさんは笑った。
  ・・・・・・そんなに笑えることがあったなんて、幸せなやつだ。
???「そう」
  極めて冷静に、相づちを打った後
  鞄から少し顔が出るようにして、くまさんは辺りを見渡して呟く。
???「しかしこういうモノと話せる人間がまだ現代にも居たとは。素晴らしいこともあるものだね。生きてると」
???「彼女、は出掛けるまで大変だったぞ。なかなか靴をはかないし、そもそもなかなか着替えないし、」
???「着替えたと思えば不安で吐くし、吐いたと思えば、しばらく震えていた」
瑞「そう、なんだ」
  ――だから外に出るまで、『ほら、ふわふわだよ、もふもふだよ』と、献身的に付いて居たんだ。
  この愛くるしさがなければできない仕事だね。
瑞「うん。実にいい仕事だよ」
  なるべく二人に悟られないように小さな声で会話する。
  ほとんど念話に近かった。
  実際のところ、彼女は、耐えられるのだろうか。
  今はフリとは言え、長い間使わなかった感覚を、
  制御されていた精神を、急に使わなくてはならない状態、しかも、沢山の人間に晒される。
  それはまさしく、暴力や事件にに曝された子どもが精神を破壊されたままで何事もないように周りにふるまい
  仲良くできるのかという問いだった。
  しかもこの場合は、破壊されたら再生出来るかもしれないが、壊れかけであらゆる刺激を吸収しやすい状態での放置である。
瑞「もしかしたら──」
  思うことがあった。
  しかし、今言っても、意味のないことだった。

〇映画館のロビー
エレイ2「さてと――何か気になるものはあるかな?」
  彼は、彼女とパンフレットを見に行く。
  彼女はガクガクと機械のように頷いて居たが、意図はわからない。
  くまさんの腕は少し強めに握られていた。
  問いかけが辛いのかもしれないと判断してぼくが間に入る。
瑞「あれとかどう?」
  今流行っているアニメのポスターを指差す。
エレイ2「あまり話を知らない」
  彼は淡々と答える。
  彼女は首を横に振った。
婦人3「ごめんなさい・・・・・・私」
  ――不安と恐怖の心理状態で、明るく賑やかなアニメなどとても長い間集中して観てられないよ。
  持たないね。
  間から答えたのはくまさんだった。ぼくがそれとなく、映画である必要を聞いてみる。
エレイ2「いやまあ、映画でなくても良いといえばいいんだが」
  彼は、うーむ、と考えるように唸った。
エレイ2「そうか、その点を考慮していなかった。疲れているなら、尚更余計な負担がかからない方が良いね」
  感情が壊れて中身がなくなって、しかしそれを他人からは有る当然のものとして接せられる、
  その空虚なもどかしく絶望的な感覚をぼくは理解していた。
  とにかく待ち合わせはできたのは事実なので、よしと捉え、ぼくらは下にあるカフェに向かうことにした。
  歩いているなかでも、時折夢の中にいるかのように、彼女はうわ言を繰り返す。
婦人3「ウワキダ・・・・・・フリンダ・・・・・・」
エレイ2「あの写真、ウワキダや、フリンダやフリンカに会っていたかもしれないんだが、誰だと思う?」
  ウシさんが見せた写真について、彼は質問した。
婦人3「・・・・・・わかりませんが、見た限り、あれは・・・・・・」
  彼女は何か、言葉を、迷っているように濁した。

〇テーブル席
  カフェは昼を過ぎてきたからかあまり人がおらず空いていた。
  飲み物を頼んでしばらく待つ。
  その間彼が口元を乗せるように指先を組みながら、のんびりと言う。
エレイ2「まあ、いいか、とにかく彼とその人物が会ったのが先週の金曜日だということを突き止めてきた。その日、きみの周りはどうだった」
  ぼくらの向かいの席に座り、彼女は金曜日、としばらく繰り返す。
婦人3「先週の金曜日・・・・・・金曜日ですか」
婦人3「金曜日はウシさんは朝から家の裏の山の方へ素材集めに出掛けていて、私はカタログなど片付けていましたね」
婦人3「予告無くいきなり人を呼びつけたりするので、しょっちゅう散らばって居ますので」
エレイ2「ウシさんが山に居たのが確かだと、わかるものは、ないかな、きみ以外に誰かが見ていたとか」
  彼が聞くと、彼女は記憶を懸命にたどるように視線を宙にさ迷わせた。
  空間認識と記憶領域は繋がっているという興味深い論文を昔読んだ気がする。
  右、左、上、下、過去、未来、いいこと、わるいこと。
  もしも、そうだとしたら彼女のデータベースは、いったいどのように積まれて、展開されているのだろう?
婦人3「はぁ。ええと・・・・・・あ、そうですね、長靴に新しい泥がついてると思います」
婦人3「買ったばかりらしいのをはいて行きましたから」
婦人3「それから庭に出たすぐの朝、塀のところで、なにか文句を言いながら、擦ってて、警察に連絡したり・・・・・・」
婦人3「今は消えてるんですが、写真は撮ってあります」
  彼女は、そう言って鞄から携帯を出した。くまさんが、こてんっ、と傾いて落ちかけたのでぼくは慌てて拾い上げる。
  ――助かった。若者。
瑞「あぁ、うん・・・・・・」
  ぼくはいまいちくまさんの性格を掴みきれない。
  やがて携帯の画面から壁について何かがあったらしき写真がぼくらの前に示された。
  長靴姿で何かを消すようにブラシを構えたウシさんと、警察のものらしき制服を着た男性。
  日付は、金曜日。
  このあと、山へ向かっているとなると、やはりウシさん自体はラーメン屋で待ち伏せていないことがわかる。
エレイ2「やはり誰かに写真を渡され、きみを追い込むよう指示されている」
  ウシさんが従いそうな人物は、それぞれすぐ見当がついた。
  ――というか『彼』以外、思い付かなかった。
  やがてぼくの友人は、それからすぐ注文が来たというのに、立ち上がった。
  そして「映画館に落とし物をしたらしい!」
  と、向かって行ってしまった。
  すぐ帰るから座っててくれと言われて彼を二人で待つことに。
  まぁ、映画館はすぐ上だ。迷ったりもしものことは、そうないだろう。根拠無く、そう信じた。
  ぼくはそうして再び二人になったという気まずさを和らげることに苦心した。
  彼女になにか気の利いたことが言えると良いのだが、
  残念ながらそういった経験には疎いため、ただ曖昧な笑みを浮かべ、ははっ、とギリギリの愛想で関わるくらいしかできなかった。
  それでもなんとか、そこそこの距離を築けている気がした。
  会話に困ってしまうが、変にペラペラ話しかける軟派な奴と思われるのも困る。
  そうだ、こうしてのんびりと誰かを待っているときの定番ホームズとワトソンごっこでもしようかと、
  それにちょうどいい観察対象を探していると、(ちなみにホームズは途中までしか読んでいない)彼女の方から話しかけてきた。
婦人3「今日は・・・・・・朝から、ありがとうございます」
瑞「あー、えっと、はい」
  何がはいなのかもわからないが、何がありがとうなのかもよくわからず曖昧に返す。
婦人3「私、あの生活が続いてたある日、限界が来て。もう来ないでほしいと言い、そのために、好きな相手が居るからと――言ったんです」
瑞「居るんですか?」
婦人3「どう思いますか?」
  ふふ、と彼女は少し儚く笑った。
瑞「幸せになれますよ、次は」
  直接、肯定も否定も具体的な話もしなかったが、彼女はその意図を組んでくれたらしい、さっきよりも楽しそうに微笑んだ。
  そこからはしばらく和やかに語り合った。
  途中から「好きな人に悟られたくないから違う人を好きなフリをする、という行為」の是非について意見を交わした。
  二人の見解では、そういった嘘は事態を泥沼化させるだけだというので一致した。
婦人3「昔クラスに居たんですよね。 遠ちゃんって子なんですが、奏汰さんという方について常に語ってらしたんです」
瑞「好きなんですかね」
婦人3「ところが!」
  と緊張のややほぐれてきた口調で彼女は強調する。
婦人3「別の子が、ある子と会話していると、嫌がらせしてるのを見るようになって」
瑞「意味が、わかりませんね」
  ずっと奏汰さんとやらの話をしておきながら、違う子が誰かと騒いでいるとそこに割り込む・・・・・・
  言葉にしてみても、やっぱり驚きの神経だった。
婦人3「後から聞くと、『Aちゃんを取られたくなかった』と」
婦人3「でも奏汰さんとも話したいと」
婦人3「もーぐちゃぐちゃですよ」
瑞「うわぁ・・・・・・人間クラッシャーだ」
婦人3「Aちゃんは、単に友人と話してただけみたいですがね。いつの間にか、勝手に二股みたいな印象をつけられてました」
瑞「どんな鬼畜が居るんだ」
  八方美人型人間破壊兵器として、今も、キャバクラかなんかで名を連ねているらしい。
婦人3「もし、そういうところに行かれる際は気を付けてくださいね」
瑞「是非とも会いたくないなぁ」

〇テーブル席
  しばらくは和やかに話していたのだが
  目の前を通りすぎた、前髪を切りすぎたようなスタイルの客がなにやら、携帯電話を耳に当てたのを見た途端──
  ぼくの身体はぴくりと反応した。
  
  予感。
  今、一瞬こちらを見たぞ。
  なぜだ。
  ぼくは、まだ、気付かれてないはず。
  
  それとも違う意味でマークされてるんだろうか・・・・・・
  彼女も空気を感じたのかゆっくりと立ち上がる用意をする。
  お金は先に払ってあるので、出ても問題はないのだが──
  つかつかと足音と共に、グレーの髪のおばあさんが近づいてくる。
  そして、顔をのぞきこむようにして
  「あらぁ、違ったわー、違う人みたい!」とわざとらしく、隣にいたおばあさんに話しかける。
  スパイ映画か。
  
  ぼくは一体、なんでこんな、どうでもいいことに、鈍感になれずに慣れていくんだろう。
瑞「出た方がよさそうだ」
  小さく声をかけて、立ち上がる。くまさんが「      」と言った。
  ぼくは「そうかもしれないね」と、思ったけれど口に出しはしなかった。
  それどころではない!
  そろり、そろりと、出口に向かう。
  いちおう自然にだ。
モブ「帽子、ください」
  カウンター席の男が注文をする。ここはカフェなのでもちろん衣服や装飾品ではない方の帽子である。
  ここそんなん置いてるのか。
  合図のために頼んだのは言う間でもないが、ゆっくり食事も出来ないとわかってしまった。
  『このビル』は、『それ』だった。
瑞「こういう人って、やたらと拠点をお買い上げしてるんだよな・・・・・・」
婦人3「慣れてるんですね」
  店から出て、フロアを歩きながら、彼女が聞いてくる。
  とても平坦な声だった。
瑞「そりゃあ、ワケがあるからね」
  ワケでもなきゃ、やってられない。嫌な慣れだ。
婦人3「ワケですか、皆、ワケがありそうですね」
瑞「そ。もちろん、あの『彼』もワケがあるんだ。あまり言いたくないけど」
  振り向いて、ちらりと店の入り口を見るときちんと『メニュー』が貼られていた。
  メニューについてあえてぼくが抱くことを説明する必要はたぶんないだろう。
瑞「うっわ、見落とした・・・・・・」
  彼女が、きょとんとしていたが、まあそのうち理解するだろう、背後にあんなのが居る以上は。
  「       」
  くまさんが、話しかけてくる。
  目立ってはいけないので、バッグの中に居てもらったが、そのぶん退屈だったのかもしれない。
瑞「確かに、このぶんだと映画館――平気かな」
  彼が戻らないのが心配になってくる。一応、民間人がわらわら来ているけれど、死角が存在しないわけでもない。
  曲がり角にあるコーナーでは、帽子の新作や靴の中古品が、ワゴンに入り、セール品!!!
  と書いてあった。
  なんとなく泣きたくなる。
  最大70%OFFだろうと。
瑞「最高のデートスポットだな」
  しみじみ思ってみたが、やっぱり当分デートなんかするべきでないなと思った。
  気がおかしくなるか滅入るどちらかだろう。

〇アパレルショップ
婦人3「あ、見てください、あれ可愛い」
  彼女は、そんな憂鬱さを吹き飛ばすかのように、ぼくにショップの洋服が飾られる区画を示す。
  着飾ったままに微動だにしない白い肌の女性や男性がわらわらと並んでいた。
  ぼくの胸中を悟られたかと一瞬焦ったが、彼女はただただ、素敵な服ですねと言った。
  生きている相手よりも、固まってそこに在る相手がタイプだというのは、なかなかこういうときに妙な罪悪感があるなと思う
  が、まあ、仕方のないことだ。
  昔、片想いの相手を「現実見てよ」とぶっ壊しやがった女が居たなと余計なことまで思い出してしまった。
  あれだから、生きてる奴の好意ってのは迷惑で好かないが、この今の距離感で、居る他人にたいしては比較的穏やかだ。

〇エレベーターの前
  そういう服が好きなのか、だとかに話題を移しつつも、映画館のある棟へと向かう。
  彼、は比較的早く見つかったので少し拍子抜けしつつも安堵した。
瑞「おーい、見つかったか?」
  と、話しかけにいこうとしたがしかしそれは出来なかった。
  目の前に、そう、彼よりも先に目の前に急に人が現れたのだ。
  彼女が目を離した隙にぼくの腕を掴み、ソイツはどこかへとこの身体を連行しようとする。
瑞「・・・・・・あのー」
  見下すような視線をした、謎の男性。
  ただ、ぼくより背が低く、あまり見下された気分にはならない。
瑞「なにか?」
???「いえ、何でも?」
  彼は何でもと言って、ぼくの手を離す。
  何かがあるかではなくて、あってもお前に関係ないということらしいが、だったら、なぜ?
  振り向くと、彼女は居なくなっていた。
瑞「あぁ・・・・・・」
???「人違いみたいでーす、しつれいします」
  こいつらよく人違いするなぁ。なんて呆れて睨んでいたら、「なにか物欲しそうだな」と言われた。
瑞「物干し竿なら、わりと、頻繁に金物屋が通りますよ」
???「コーヒーでも飲む?」
瑞「は、はぁ・・・・・・じゃあ」
  断るのも面倒なので適当に相づちを打つと、大きなため息。
???「俺を、喫茶店かなんかと勘違いしてるんじゃね?」
瑞「・・・・・・」
  面倒だ。
  ああいうのたまに居るよなあなんて諦め気味で「それじゃ」と再び無視して元居た場所に戻って来たとき、
  やはり彼女は居なくて友人も居なくて、少し虚しくなったりしたが、
  しかし虚しくなっている場合でもないだろうからと、辺りを見渡す。
  通報の用意をしてくれ、という意味が、なんとなく、だんだん掴めてきた。
  少なくとも――すきやきが、上を向いて歩くくらいには。

〇映画館のロビー
  映画館へと一応歩みを進める。
  ポスターが並んで貼られた入り口付近で探す目的は果たされた。
  『友人である彼』が、女の人に捕まっていたのだから。
  ナンパではなさそうだ。
  依頼者の彼女は、というと、遠い距離にある向かいの階段に居た。
  一人きょろきょろとさ迷いながら、下へ降りるところだった。
  適当に絡んで、孤立させる作戦が実行されたらしい。
  どうしようかと、一瞬迷った。フロアを降りるか、彼を助けるかの二択。
  『相手』もうまいこと、人を利用して――単なるバイトに済まない策略を持ってして、ぼくらを追い回してるようだ。
  店に入れば合図を示し合わせられるようにしてあるし、
  何か見かければ携帯で連絡を取るようにしてあるし、
  例えば個室にした場合でも、強引に、人違いなどを装う度胸を持ったいやがらせ。
瑞「まあ、警察もグルって場合もあるけどな」
  田舎の警察は地域と仲良しと聞くし・・・・・・そしたら、今度こそ、いや考えたくない。
  ただでさえ作家に付随する面々から追い回される面倒な身である。
  まさかかつてはこんなに人権破壊行為をする職業だったとは思いもよらなかった。
  単なる嫌がらせでは済まないことを繰り返している。
  珍しいものや、価値のあるもの、変わったものは、根こそぎ狩り取り、強引に配り歩いてネタにしてしまう作家を名乗る
  『悪徳集団』が存在する。
  ――のだけれど、今はその話より先に、どちらかを追わねばならないと、
  ぼくは近くに居た彼の方にまず向かった。
  
  彼に絡んでいたのは「あの写真」の女性だった。
???「パイの実食べません?」
エレイ2「・・・・・・・・・・・・あー」
???「あぁ、箱? 幼馴染みのリス君二人がパイの実の森に居る絵です。パッケージ変わったんですよね」
エレイ2「・・・・・・うん」
  なんて会話をしている横にそーっと近づく。彼は、困惑が隠せないようではあったが思っていたよりは冷静そうだった。
エレイ2「彼氏はいいのかな?」
  彼女は、あははーと笑う。
  手には紙コップを持っていた。自販機のジュースを買ったらしい。
エレイ2「・・・・・・・・・・・・」
  彼は、少し何か思案した。
  それからまた、固まったまま、思案していた。
  ――なんだか様子が大丈夫そうに見えたので、要らない心配なら下へ降りて彼女を探すことにしようかと背を向けたときだった。
エレイ2「ふざけるな。この僕が――騙されると思ったのか?」
  冷ややかに笑うそんな声がした。彼だ。
エレイ2「生憎、きみと馴れ合う気はないんでね」
  女性には比較的紳士で優しい方であるはずの彼が今日は不機嫌なので、なんだかぞわぞわと落ち着かない心地だった。
  やがて彼は、ついぼんやり足を止めてしまったぼくに、急に呼び掛けてきた。
エレイ2「そいつを捕まえろ!」
???「えぇー」
  彼女はばたばたと、彼から逃げて、こちらに向かってくる。
  ぼくはしばらく迷ったが、腕を広げて簡易なバリケードになる。
  待てよ打ち合わせと違うじゃないかなどとぼやく場合ではなかった。
  捕まえろと言われればそうするしかない。やがてぼくと彼は、その人物を挟み撃ちで確保した。
  華奢な身体とは裏腹に、足は骨がゴツゴツと角張った印象を与えていた女は、喉仏を震わせながら、
???「う、わぁああ・・・・・・」
  と嗚咽を溢す。
???「なんで、バレたんだ、俺の、メイクは、完璧だったのに、あいつ、約束が違うじゃないか!!」
エレイ2「メイクはいいんだけどね・・・・・・」
  彼は、呆然とするぼくをよそに、ため息を吐く。
  彼は彼で、女の子みたいなカッコウなので、突っ込みどころがあるが、今はやめとこう。
エレイ2「骨格は変わらないし、変えられるにしても、きみは決定的な部分が、欠けてたよ」
???「チクショー!! 裏切ったな!! お前がやれって言ったんだぞキンパツ野郎!」
???「あああああー! なんて惨め、辱しめだ!! 俺の金はどうなる!? 1000万はどうしたぁあぁ!!!!」
エレイ2「ふむ、やはり、金を渡す約束で、女のフリなんかさせられてたか」
  ――女のフリ?
  ぼくは、言ってはなんだが、人間にさして興味がないので、今の今まで、男が泣きわめくまでは気がつかなかった。
瑞「・・・・・・なぁ、絵鈴唯」
  ぼくは彼を呼んだ。
  ずいぶん久々に。
エレイ2「なんだ」
瑞「これ誰?」
エレイ2「誰だろうね、少なくとも、あの家に来ていたヤツだろ」
  彼は特に驚きもせず、ただ、肩をすくめていた。
瑞「――え?」
エレイ2「ま。いつも輪の方から逃げていく。入る入らないは、輪に接触できる人間だからこそ言うこと。それが真相」
  なつかしい台詞をなぞりながら、彼は男――しゃがみこみ泣きじゃくる女装を指差した。
エレイ2「――ちなみに茶会というのは、教室の人たちの集まりですね、ときいたとき、」
エレイ2「彼女は 『えぇ、そうです! そうでなく友人をここに招いたのはあなたたちで久しぶりです』と言った」
エレイ2「彼女は少なくとも、薬指に指輪はつけてないし、お揃いの皿やカップを買うという風習のところもあるが、それらも見当たらない」
エレイ2「もちろん物だけでは判断出来ないが、」
エレイ2「いくら彼のような見た目でも結婚していればそう易々と部屋に男性を入れないで、玄関先くらいという場合も珍しくないのだが、」
エレイ2「それにしたって、どこか、異性との会話に慣れている部分があると思わなかったか?」
エレイ2「いや、意識しない、という風が正しいか。 あれだけ、マエノスベテが縛っていたのに」
  つまり。
エレイ2「『ぼくたちに 接触しようという発想自体』が、おかしい」
瑞「いつ、気づいた?」
エレイ2「『事件のこともある』からな。この街を支配する宗教団体、そして櫻さんを、避けて通ることは海外にでも居なきゃ出来やしない」
エレイ2「ウシさんですら警戒していた。笑顔ではあったが、あれは、社交辞令」
エレイ2「しかし少しも怖がらない様子を見せるのは、根拠となり得るそれ以上の怯えるものを知っているのは、彼女くらいだった」
エレイ2「僕を訪ねることができた、その発想を当然のように抱いた最初から変だと思った。 そのあとあの彼が来るわけだが──」
  ある意味の密室、しかし、彼女はぼくらに怯えもしない。
  女子同士のような、気兼ね無さ。
瑞「待ってくれ、その前に、こいつ、本当に──」
エレイ2「団体とか、事件の背景はあんなんに会えば今更な度胸はつくだろうから怖がらんだろう」
エレイ2「しかし彼女は、今でもマエノスベテには取り乱すのに、 ぼくらを招き入れる躊躇はしない」
エレイ2「恋人でもなくて、茶会にも居ない。でも、マエノスベテが、怒らないで、家に出入りできる存在、簡単に言えば『男』が居たと疑った」
  マエノスベテが怒らない、
  彼女の家に居ても、暴動が
  起きない男──
瑞「・・・・・・が、なぜ女装」
  目の前で、顔を真っ赤にする男は叫んだ。
???「あいつにやらされたんだ! あいつのいる、炒めドラゴンチャーハン部隊は男しか入れない! 協力者も、男でなきゃならなかった!」
エレイ2「あの悪名高いチンピラ集団か・・・・・・名前しか知らないが、確かにバレたらまともなら女性なら集まらなさそうだな」
???「あいつは相当独占欲が強い。俺様の物は俺様のものってやつだ!」
???「下っ端の俺が、昔あいつと義理の兄弟だと知ると、理由を付けて中に入らせ、」
???「男物のものが無いか、日記に余計なことが書いてないか、逐一報告させていた」
???「・・・・・・そのうち――なんていうか、愛着が沸いて、さ」
  ムードが、穏やかなものに変わる。ぽっと恥ずかしそうに頬を染めた。
エレイ2「はあ?」
  彼があきれる声。
???「いや、なんか、俺が、このまま、アイツになれば、よくね? とか・・・・・・ いや、ダメだそんなの、とか、思ってたときに、」
???「奴は囁いた」
  なれるなら、お前を代わりにしてやる。
???「相応しいか試してやるから、一度女装して飯でも食べに行かないか」
  うまくやれたら──
エレイ2「なるほど、それを写真に利用されたようだ」
  彼が、冷静にうなずく中、男は惨めだと嘆くように、まだ紅潮している顔と、赤くなった目でぼくらを睨んだ。
???「せめて、金さえ・・・・・・安くても取引が上手く行けば数千は貰えたはずなんだ」
???「うまく、やれていたら、ラーメン屋じゃバレなかったってのに」
  大体理解した気がしたので、彼女が居なくなったことを、ぼくは彼に耳打ちした。
エレイ2「それは大変。追いかけなくては。コレも引っ張っていこうか。悪名高いだけあって、警察に引き渡すってのが正しいだろうけれど」
  彼はポケットから男の携帯電話を取り上げる。電源は入っており、都合良くもロックは解除されたばかりという状態だった。
  着信履歴にある番号をさっさと記憶した彼は、すぐに鞄から出したメモ帳へとメモする。
エレイ2「うむ、どれかが、マエノスベテのものか・・・・・・なになにー、タチバナ、クチヤマ、ヤモト・・・・・・」
  電話帳に登録してあると横に名前が出るので、それを読み上げていた。
エレイ2「この、立場名わわ子には連続で二回かけているね――誰かな」
???「誰が教えるか、大体、偽名かどうかも怪しいのに」
エレイ2「クチヤマ智夫、これは?」
???「話を聞け!」
瑞「あ」
  ――櫻って名前もあった。
  
  ぼくは、彼を押さえつつ発見する。
  男の名前だけで見れば、最初の方に上がった智夫が怪しげだったが、別用の可能性もある。
  先週の金曜日まで遡ると、彼は携帯をまた捩じ込んだ。
???「あいつはすぐ携帯を変えるから、繋がると思うなよ」
エレイ2「なるほど、頻繁に契約変更しに来るやつをマークできるよう言っておくよ」
???「言うって、誰に──」
エレイ2「きみが知る必要はない」
  彼は呆れながら男を立ち上がらせる。
  ――まあ、もっとも、バイトを雇うくらいわけないのだろうけれど。とは誰も言わなかった。

〇空港のエスカレーター
  だけど、彼女の立場は、どうなのだろうか?
  前にも後ろにも進めないということじゃないか。
  女装がソレを成し遂げたところで、成し遂げられないところで、マエノスベテのために強引に閉じ込められ
  感情が無くなり、今度はその檻から出たところで居場所すら欠片もない。
  内側ではウシさんが妬み余計に彼女を迫害し、外側では彼女の立場を他人が持っていく。
  義理の兄弟であるなら、ますます、彼女は末として蹴落とされるだろう。
  やっぱり、人間は最悪だな。
  最低だ。ぼくの方が感情移入してしまいそうだった。
瑞「こんなことが・・・・・・こんなひどいことがあっていいのか」
  ぼくはさりげなくポケットの中に持っていた小型のレコーダーの起動を確認する。
  こんな物騒な生活のせいで常に持っているもので、小さいが5、6時間くらいは働いてくれるものだ。
  レコーダーが問題なく動作していたのを確認すると、男を警備員に引き渡してぼくらは下へと向かった。
瑞「平気だったか?」
エレイ2「僕は平気だが、こちらの台詞だ」
瑞「この辺りの店、支配されてるみたいだよ、少し危なかった」
エレイ2「やはりそうか・・・・・・」
  向かう間エスカレーターの中でそんな会話をする。
  本当に彼女はどうしているだろう。
  壁に、ドラッグストアの開店セールのチラシが貼られていた。「明日は、今流行りの賢くなる入浴剤がお安くなります!」
  そういえば一昔前に、賢くなるシリーズが流行ったものだ。
  頭脳パンとか、DHAジュースとか、なんか怪しげなヘッドギアとか。魚を食べると頭が良くなるという宣伝も流行ってたな。
  まだこんなのあるのか・・・・・・
  この店はたまによくわからないものを売っており、新しいのか古いのか、
  なんだかいまいち境目がわからない感じが逆にぼくには魅惑的で好きだったりする。
瑞「頭がよくなるかな?」
  チラシが目に入るついでに、彼に話題を振ってみる。
エレイ2「さあ? 勉強したほうが、早いと思うけど」
  彼はしれっとしていた。
  確かに。
  時代は、変わる。なんだか、ついていけてないような気もする。
  放送していいのかと疑問を感じざるを得ないオカルト番組が夕方頃にやっていたり、
  グロいフラッシュアニメが流行っていたことを、きっと今の小学生は知らないだろう。

〇雑貨売り場
  このフロアの隅になぜかあるエセSFグッズが売っている区画
  (月っぽい石、とか、NASAが開発してそうなまな板とか)に行きたくなったが同時に、そんな場合でないこともわかっていた。
  現実逃避をしたくなる現実のなかに居ると、なんだか、こう、ふわふわと、漂うような、変な心地になるときがある。
  彼女を探してあちこち見回る。なかなか見つからない。
  さらわれたんだろうか、という考えが脳裏を掠めた。
  目を離したのはぼくだ。
  悲しんでいる場合ではない。
瑞「なぁ、なんで、わかったんだ?」
エレイ2「あの男が此処に来ることか、いや、想定とは少し違っていたよ。マエノスベテが現れると思ったんだが──」
瑞「・・・・・・、何故、なにしに」
エレイ2「デートを装おって、此処に、邪魔しに」
  つまり、このデートはエサだったわけか。『何処からか』情報を掴む彼が、割り込んでくることを彼は想定した。
エレイ2「さすが、通報も見越しているらしいな」
エレイ2「彼はまず、下っ端に先に来させておき連絡を待ってからやってくる予定だったのかもしれない」
エレイ2「が、あんな騒いだから、たぶんもう来ないな」
  通報を見越すって、どんな場数を踏んでいるんだ。
エレイ2「監視カメラもハッキングかなにかされているだろうから」
エレイ2「つまり僕らは監視から逃れられないということだ」
  監視して先回りされたらまずくないかという考えも浮かぶが、しかし今のところ、彼らは、直接は手出ししてこない。
  回りくどく道を塞ぎ、回りくどく怒鳴り込むかピンポンダッシュくらいである。
  だから、せいぜい嫌がらせがメインだろうと言う気持ちもあった。
  彼が携帯を取り出してかける。彼女に電話したのだろう。
  ぼくも彼に近づき、耳をすませる。
  「はい・・・・・・」と微かな声がした。
エレイ2「今、2Fに居るんだけれど」
「あー、良かった、もう帰ったのかと、私は今、出てすぐの場所、外に居ます」
エレイ2「まさか、さすがに連絡はするよ。それに誘っておいて、こんな真似はしない、今何かあったりしたかな?」
「女子高生が、近付いて来るんです・・・・・・帰るにも帰れないし・・・・・・なにこれ、顔写真でも配られてるんですか?」
  あいつが駐車場に向かうようにだとかの指示を出しているのだろう。
「怖い・・・・・・、来ないで・・・・・・さっきから、ぐるぐる、回っています、あちこちから人が」
  落ち合えるだろうか。
  少し心配になってきた。
エレイ2「何か、建物とか、人を巻けそうな場所はないかな?」
「探してみます」
  ぼくたちを孤立させてから、追い回す、狡猾だ。
  周りをふと見ると、スマホを構えた人たちがぞろぞろ歩いていた。外に近づくにつれて。
  !?
  モンスターGOをしている風だが、どこか嘘っぽい。

〇雑貨売り場
  このフロアの隅になぜかあるエセSFグッズが売っている区画
  (月っぽい石、とか、NASAが開発してそうなまな板とか)に行きたくなったが同時に、そんな場合でないこともわかっていた。
  現実逃避をしたくなる現実のなかに居ると、なんだか、こう、ふわふわと、漂うような、変な心地になるときがある。
  彼女を探してあちこち見回る。なかなか見つからない。
  さらわれたんだろうか、という考えが脳裏を掠めた。
  目を離したのはぼくだ。
  悲しんでいる場合ではない。
瑞「なぁ、なんで、わかったんだ?」
エレイ2「あの男が此処に来ることか、いや、想定とは少し違っていたよ。マエノスベテが現れると思ったんだが──」
瑞「・・・・・・、何故、なにしに」
エレイ2「デートを装おって、此処に、邪魔しに」
  つまり、このデートはエサだったわけか。『何処からか』情報を掴む彼が、割り込んでくることを彼は想定した。
エレイ2「さすが、通報も見越しているらしいな」
エレイ2「彼はまず、下っ端に先に来させておき連絡を待ってからやってくる予定だったのかもしれない」
エレイ2「が、あんな騒いだから、たぶんもう来ないな」
  通報を見越すって、どんな場数を踏んでいるんだ。
エレイ2「監視カメラもハッキングかなにかされているだろうから」
エレイ2「つまり僕らは監視から逃れられないということだ」
  監視して先回りされたらまずくないかという考えも浮かぶが、しかし今のところ、彼らは、直接は手出ししてこない。
  回りくどく道を塞ぎ、回りくどく怒鳴り込むかピンポンダッシュくらいである。
  だから、せいぜい嫌がらせがメインだろうと言う気持ちもあった。
  彼が携帯を取り出してかける。彼女に電話したのだろう。
  ぼくも彼に近づき、耳をすませる。
  「はい・・・・・・」と微かな声がした。
エレイ2「今、2Fに居るんだけれど」
「あー、良かった、もう帰ったのかと、私は今、出てすぐの場所、外に居ます」
エレイ2「まさか、さすがに連絡はするよ。それに誘っておいて、こんな真似はしない、今何かあったりしたかな?」
「女子高生が、近付いて来るんです・・・・・・帰るにも帰れないし・・・・・・なにこれ、顔写真でも配られてるんですか?」
  あいつが駐車場に向かうようにだとかの指示を出しているのだろう。
「怖い・・・・・・、来ないで・・・・・・さっきから、ぐるぐる、回っています、あちこちから人が」
  落ち合えるだろうか。
  少し心配になってきた。
エレイ2「何か、建物とか、人を巻けそうな場所はないかな?」
「探してみます」
  ぼくたちを孤立させてから、追い回す、狡猾だ。
  周りをふと見ると、スマホを構えた人たちがぞろぞろ歩いていた。外に近づくにつれて。
  !?
  モンスターGOをしている風だが、どこか嘘っぽい。
  外に出られるだろうかとは言う暇もなく出なくてはならない。
  覚悟を決めて、ダンスが未だにレボリューションするそばを潜り抜け、下へ急ぐ。

〇エレベーターの前
  「さすがにこの建物の屋上は跳ぶのは危険だから、やりたくないよな」なんて思って、どうかそうならないよう願った。
エレイ2「櫻さんは、トラウマを植え付けた、許されないこともしていた。謝罪は無いがそれを理由に、関わりたくないと断交する方法もある」
  走っている横で、彼はふいにそんな話をした。
エレイ2「ケガの功名、じゃないけど――きみだって、僕だって、外に出られなかったのは櫻さんのせいなんだから」
  『櫻さんが居るから』
  争いになりたくないから。
  争うから。
  櫻さんが奪うから。
  櫻さんは――――
エレイ2「もしも櫻さんが居なかったら、こんなことにならなかったし、周りなど気にせず、場所など選ばず、」
エレイ2「もう少し平穏に生きられたんじゃないかな」
エレイ2「櫻さんの居ない場所を探して、気を遣って、隠れるように生きてきたようなものじゃないか」
瑞「櫻さん次第というのは、確かに大きい。なんで、櫻さんなんだろうな。櫻さんが居なければ、逆にぼくらはどこに居たっていいわけだ」
  櫻さんの居ない場所なら。
  櫻さんにさえ、会わないなら。まるで、彼女にとっての
  『マエノスベテ』だった。
瑞「櫻さんがぼくに付きまとってネタにしていることは前にも言ったけどさ」

〇繁華な通り
  ぼくは、雨が降りそうな空を見上げた。
瑞「彼女の処女作は、ぼくの殺された祖母をテーマにされてたよ」
  ぼくは言う。細部は、彼女の憎悪と悪意で曲がってしまっているけれど。
  ぐちゃぐちゃ、歪んでいく、世界。
瑞「次の作は、ぼくの、壊された、世界を、テーマにされていたよ」
  ぐにゃぐにゃ、歪んでいく。
瑞「ぼくの、殺された、友人が、テーマになっていたよ」
  ぐちゃぐちゃ、壊れて、乱されて、崩れていく。
瑞「ぼくの、大事な人が、テーマになっていたし、 ぼくの、殺された、実姉が、テーマになっていたよ」
  櫻さんにとって、ぼくの価値ってなんだろうか。生きているネタ帳に過ぎないんだろうか。
瑞「――なんで、知ってるんだろうな。なんで、そんな作品を、創るんだろう」
  身の上話は、うまく隠蔽しなくてはならないけれど。
  だからこそ。
  『だから』
  言うことが出来ないからこそ。
  時おり人々のねちっこい視線は感じたもののどうにか店から出ると
  駐輪場の近くが、ニコラ・プーサン『ディオニューソスの誕生』みたいになっていた。
瑞「・・・・・・うーん」
  警備員に絡む、若者たちがたむろして出来た美しい光景だった。
  背後は丁度山がそびえているので尚更そう感じたのかもしれない。
  彼女の姿は見えなかった。
  マエノスベテを取り押さえるのは失敗だったが少なくとも、収穫はあった。
  写真を撮ったのは誰かという問題もありはしたが、ウシさんは彼らに協力を惜しまないことは見えてきた。
エレイ2「少なくともサンダースじゃあ、ないだろうね」
  彼が、マニアックなことを言った。
エレイ2「なるほど、プーサン的だ。確かに、これはプーサンだ・・・・・・」
  そして、続けて一人クスクス笑う。
  特に、意味のない会話だった。
  サンダースの話や革命をしている場合ではないのだが、
  正直、追っ手が尋常じゃないし、周りは駐車スペースで見張らしがいいが足場はないから逃げにくいし、混乱極まるばかりである。
  本当に、ぼくらも店の周りをぐるぐる回ることとなった。
  彼女はどこに居るのだろう。
エレイ2「ところでなんだが、僕は面白いことを常々考えたい性分なんだ」
瑞「それで?」
エレイ2「こういうときに、夜までに家に帰れなくなるっていうのは実に許しがたいんでね」
エレイ2「女装から聞いた情報である炒めチャーハンドラゴン部隊や、その周りについて考えを落ち着けようと思ったわけだよ」
エレイ2「つまりこの街を乗っ取っているひとつであり、恐らくは櫻さんとも繋がっているからこそ」
エレイ2「ウシさんはあのニュースを気にして、僕を気にしている。ここまでは分かるんだ」
エレイ2「僕らはウシさんの怒りが何に由来するかを探して来た、きみにも薄々飲み込めてきただろう」
  ぼくらが何回目かに、ぐるぐると回っているときだった。
  彼女が居た。
  屋根付きのすでに車でいっぱいな駐車場を『あえて』通っていたということに視点を変えたとき気がついた。
エレイ2「確かに、すでに車でいっぱいだから、車や自転車には追えないし此処はカメラが囲んでいる。人の死角も作りやすい」
  彼が納得しながら言った。
  ぼくもそちらに向かう。
  彼女の戦いにねぎらいを込めて手を振る。
  助けてもらおうとか、こいつが居ればなんとかなるとか、自分の身を自分で守る考えがない人間は此処じゃ生き延びられない。
  そういった他力本願には真っ先に失格の烙印を押される。
  しかし、彼女はぼくらを呼びはしたものの、それは自分で戦うためであって力にすがるためなんかじゃない。
瑞「ははっ」
  笑みがこぼれてくる。
瑞「きみは、いい人だね。 ぼくは人間を気に入ることはほとんどないんだ」
瑞「今言うのもなんだけど、 友達になってくれたら嬉しいな」
  彼女は、こちらに気がついて手を振りかえす。
婦人3「勿論ですわ」
  彼女は、少し額に汗をかきつつも、疲労にふらつきながらも前を見据えた笑顔で、うなずいた。
  三人でおせっかいおばさんの家を目指すこととなった。
  着くまでの間、「男女間の友情ってあると思う?」
  というテーマで議論がかわされた。
  性別以前に人間との間の友情の問題だとぼくは常々考えているし、
  家で読むときがあるのは人外と仲良くする本が多かった。
瑞「相手を、人間だと、対等だと認めていてやっと成り立つ議論だよね」
  ぼくが言うと、彼はそれは言えるねと笑い、彼女は「性別と恋愛自体が、近頃の流行りではもはや関係無さそうですね」と言った。
瑞「ロボットと付き合ってみたいな」
エレイ2「おい、それは浮気になるぞ」
婦人3「浮気と不倫は、なにがどう違うのでしょう・・・・・・?」
  ちなみにぼくらは傘をさして歩いている。
  さほど雨は降っていないのだが
  モンスターGOのフリをする集団が、先ほどからあちこちに待ち伏せて撮影をしようとしているのだった。
  芸能人か。パパラッチですか、と突っ込んでもどうにもならない。
  角を曲がる。たしか、ええと、ぼくらの家より少し奥だから・・・・・・
  と脳内に地図を広げる。
エレイ2「実際こいつらなんなんだ? 一日にベンツを3台続けて見たぞ、こんな田舎で!」
  彼があきれたようにちらっと横からついてくる車について言う。
???「あいつらじゃね?」
???「え、まじ、いんの?」
  誰かがまるでぼくらについて言いふらしているかのような言葉が、背後からボソボソ聞こえる。
  さりげなく、そちらをうかがうと、
  傘の下からでもコミケで有名、らしい人気フリーゲームの派手なバッグを持つ姿を確認した。一人はヲタクらしい。
  改めて言うが、人がまばらな田舎においてあまりアニメやゲームグッズを身に纏う人間はそう居ない。
  高齢者が多いからでもあるし、単に店が少ないからでもある。
  つい最近になってアニメショップがぽつぽつ増えてきはしたが、
  派手な装いで来るやつは大半都会帰りと未だ相場がおよそ決まっている。
  つきまとうならカメラを起動してみようかと彼が携帯を出して見る。
  電源が入るとたん、付きまとう歩行者は一斉に自分のスマホを見た。
  このタイミングの良さ!
  間違いなく、これは、なにかしらの情報を共有している。
???「社長がさー」
???「俺も、具体的には聞いてないんだよな、こうしろってだけで」
  時折、若者の口からは、たびたび社長という言葉がこぼれていた。
  ぼくたちは人を巻きやすい場所を求めて一旦あちこち走り回った。
  携帯は電源を一旦切るしかない。
  こんなのが毎日続くと、ぱったりと音信不通になってしまうのでかなり不思議な人物になってしまいそうだが──
瑞「社長?」
  ぼくが隣にいる彼女に確認をとると、彼女は苦笑いのような半泣きのような表情で言う。
婦人3「はぁ、私も、よくは知らないんですが、マエノスベテは、社長だそうで」
エレイ2「どんな会社だ、うわっ」
  三人、走り回っていた途中、緑川☆印刷のトラックがぼくらの前方、狭い路地でわざわざ横にとまる。
エレイ2「塞がれた!」
  彼が叫ぶ。ぼくらはどうにか引き返すとまた走り出す。
  なんだ、これ、どうなっているんだ?困惑するなかで脳裏に浮かぶものがあった。
瑞「あの男。SNSの――アイコンがあった。待ち受けに。Twitterのものだった」
  最近SNSでいろんな事件があったとニュースになっていたばかりだ。
  半グレ集団が、SNSで集会を呼び掛ける話や、麻薬を売る人が、販売を持ちかける話、自殺志願者を募る話。
エレイ2「確かにSNSで、僕らについて共有していた可能性はあるな」
瑞「近くに交番がある。そばを通ろう」
  ぼくと彼はそう言い合った。
  彼女が「あの男?」という顔をしていたが今は説明する場合じゃない。此処は戦場だ。

〇屋根の上
  それからはしばらく、ばたばたと、走り回って、ただひたすらに走り回った。
  交番は人が居なかったが、指名手配犯の写真がいろいろと貼られていた。
  マエノスベテは、載っていないが・・・・・・
  遠回りしていては目的地につけないので妥協はある程度必要で、途中からは覚悟を決めて進む。
  おばさんの家のある通りに近づきあとは此処を上ってというところで、ふと壁を見るとその白い壁にはなにか絵が描いてあった。
  『猫』だった。
  たぶん、猫だろう。
  人のような、猫のような。
  そして猫は、一人に同化しかけるような曖昧な二人の人間・・・・・・双子だろうか? に指をさしている。 真ん中には、魚。
瑞「そういうことか・・・・・・」
  ぼくは、少し、笑った。
  彼女は後ろを向いて追っ手を確認していた。
  彼は、ポケットから出したコンニャクゼリーを見つめる。
  やがて、ゼリーをポケットから戻した彼は、
  ある一軒屋にずかずかと向かいためらわずにインターホンを押した。

〇ボロい家の玄関
  きい、とドアが開くとおせっかいおばさんが、不機嫌そうに現れた。
瑞「こんにちは」
  ぼくらが挨拶したとき、対峙したそのとき、おばさんはまっすぐ指を伸ばして目を丸くした。
  ぼくらには目もくれずに彼女を指差す。
お節介おばさん「田中さんとは、うまくいってるの?」
婦人3「――田中さんから、そう聞いて居ますか?」
  彼女は一歩前に出て、そして表情を変えなかった。

〇広い玄関
お節介おばさん「まぁ中に入れば?」
  と言われお言葉に甘えることにした。
  玄関は相変わらずの、なんというか、この国の玄関らしい玄関だった。
  木の、一枚板みたいなのが、縦になったやつや、シーサーやらが、隅に飾られている。
お節介おばさん「コーヒー飲む?」
  と聞かれぼくは苦笑いした。
  他人からコーヒーと漬け物を薦められたときには、注意が必要だと、昼間学んだばかりである。
瑞「お気遣いなく・・・・・・」
  うっかり頷いて私は喫茶店じゃないわよ!
  なんて言われては、かなわない。(ちなみに実際に言われた)
  思えば、この家のなかに入るのは随分と久しぶりだった。
  彼はというと、遠慮を知らないのか、それともぼくの事情を知らないのかごく普通に
エレイ2「ありがとうございまーす」
  なんて言っていたし、おばさんは結局、自身を喫茶店と見なしたとは考えなかった様子である。
  ほっとしながら、リビングへと通される。
  しばらく一人物思いに耽っている間に、おばさんによってカップに入ったコーヒーが運ばれてきた。
  なんだかんだでぼくのぶんも置いてある。
瑞「・・・・・・いただきます」
  ちなみに隣に座る彼はじつに毅然としていた。好かれようが嫌われようがあまり気にしないやつなのだ。
  結局この街は、何人が地元民なんだろうとごちゃごちゃ考えているぼくとは違い、
  いつの間にか
  彼は彼女と談笑し始め、
  ・・・・・・おばさんは、お菓子をもってこようと移動していた。

〇広い玄関
  まず最初に言っておくことというのは、田中さんとは、付き合ってもないし、会っても居ません。
  ということです。
婦人3「えぇ、お見合い、断りましたよね」
お節介おばさん「でも、私には、連絡が来ていたよ? 遊びに行くだの、行っただのとね」
婦人3「あぁ、それは、嘘ですよ」
お節介おばさん「――嘘?」
婦人3「――なんでも、」
  『私の姿を、
  自分にしか晒したくなかった』
  とかで。
  あの彼と一緒ですね。
  独占欲がありすぎるがゆえに、私は、何一つ自我を持てなかった。
お節介おばさん「断っても、一方的にかい?田中さんからはよく聞かされていたのに」
婦人3「えぇ。おかしいでしょう、私に愛想どころか、感情なんてものが欠けているのに『楽しむ』が頻発したらおかしい」
お節介おばさん「――欠けてるねえ、言われてみれば、そうかもしれないね」
お節介おばさん「それでも恋をすれば楽しく食事したり、遊園地ではしゃいだりするのかと、人は変わると思ったもんだが」
婦人3「――人は簡単には変わりません。 何かするたびに、過去にしばられる、その過去に寄り添うことで、どうにか前を向くようになる」
  マエノスベテは、私から自我そのものを取り上げました。
  自我がないと、心は組み立ちません。
  そして自我は、心よりも厄介な仕組みです。
  だから今は治しようがないのです。
お節介おばさん「――嘘、じゃあ、新たに紹介したって良かったわけだね」
  「うそうそ、あなたには田中さんが居るからね!」
婦人3「とみんなの前で言われたとき、私はどうしようかと焦りました。冗談にしても、冗談じゃない」
  三人と、おばさん。
  まず『彼女』が話したのは、
  おばさんが田中という人を仲介した後付き合い続けていると思っていたというものについての事後報告だった。
  マエノスベテに傾倒していたウシさんが怒った理由の背景におばさんのおせっかいが絡むだろうということは、
  あそこまでのことがあれば誰でも推測がつくことだろう。
  それとなく、『彼』についてもぼくらはおばさんに付け足した。
お節介おばさん「ほー。田中さんと、『その彼』、かつて付き合いがあったけど、知らんかったかね」
エレイ2「いや、たぶん『知っています』」
  答えたのは、ぼくの友人の彼だった。
エレイ2「知っているからこそ怒り狂ったのでしょう。田中さんと、彼女に付き合いがあることにされる話が、」
エレイ2「少なくとも数人に広まる。数人に広まってもやがては、街全体に理解が及ぶはずです」
エレイ2「、マエノスベテ――いや、 あの人が、フラれた、と」
エレイ2「そりゃあ大ニュースですからね、あれだけ、さわいでれば」
お節介おばさん「何かされたの?」
  おばさんの問いに、彼女は、なにも答えなかった。
  一気にリヒャルトシュトラウスと言おうとして噛んでしまいもう一度口にするのが畏れ多くためらわれるような、そんな感じがした。
瑞「でも、それで今更『派手』という言いがかりをつけるものかな、ウシさんは、他人の派手さには興味無さそうだったじゃないか?」
  ぼくは彼、に振ってみる。
エレイ2「さあね、前から思ってたのかもしれないし、何かあったかもしれないし?」
  彼が、何か言おうとしたところだった。
  おばさんはふいに、そういえばとぼくを指差した。
お節介おばさん「あんたは決まったの、相手?」
瑞「・・・・・・」
お節介おばさん「あぁ、もちろん生きてる人間だからね?」
  なんてイヤガラセだ。
  それを言われると二の句が継げない。高音にはならないが。
  おばさんは、なぜかぼくを生きている相手とばかり付き合わせようと画策するところがある。
エレイ2「・・・・・・」
  彼、は何も言わなかった。
  ぼくが、本当の意味でいったいなぜ生きていない相手を愛しているのか、昔どんな事件があったか知っていても、
  あえてそれで庇うような無様なことをしなかった。
  リビングを見渡すと、昔流行ったキユーピー人形に個性的なビーズドレスが着せられたものが
  ケースに入って展示されているのが見えた。
  服の下に、小さな羽があるのだがそれは見えそうにない。
  ・・・・・・キユーピーさんは、対象とかとは違う、神聖な何かかな、などとよくわからないことを思ってみる。
瑞「一度、決まったことがあるじゃないですか」
  頭の片隅で、よしなしごとをごちゃごちゃ思いつつ、ぼくは言う。
瑞「一度、確かに決まってたのに・・・・・・」
  誘拐されて、見下されて、リンチに合って、穢れて、汚れて、跡形もないくらい殴られて、
  跡形もないくらい、焼かれて、存在できないくらいに叫ばれて──
瑞「ぼくと付き合う人間が、幸せになることはないし」
  ただの人間だった場合、どんな目に合わされどんな風になるのかも、
瑞「どうにもならなかったじゃないですか、あのときも」
お節介おばさん「でも、そんな、過去のことでしょう? まだ先はあるんだから」
  とおばさんは励ましてくれた。
  これは本当の理由、というよりは3番目の理由だ。
  けれど、1つだけでも充分他人は引いてしまうから他は言わなかった。
瑞「そうですけど。 はっきり決まったことを変えるって、なんていうか、消化できないというか・・・・・・」
  と、まぁ、いろいろな世間話をしたのだが。話を戻そう。
  ウシさんが写真を渡された人さえ突き止めれば、
  ウシさんが誰と繋がっているかはわかりそうだったが、少なくともマエノスベテの指示には変わり無さそうだった。
お節介おばさん「まぁウシさんが怒って、教室が開きにくくはなったけどね」
  いろいろと世間話をした帰り際に、おばさんはそんなことを言った。
  「助かったぁ、って人も居るんだよ」

〇学校脇の道
  帰りも大変だった。
  出版社と櫻さんの宗教と、チンピラが入り交じるとこんな妨害が生まれるのかという有り様だった。
  家の入り口には、携帯電話を耳に当てた老婦人が立っている。
???「もう帰ります、はい、もう、帰りますけぇ」
  と、自身の帰宅を告げるような電話を、ぼくらを目にしたとたんに始めた。
  その報告からほどなく3分くらいで、エンジンだかモーターだかの唸りがどこからか聞こえ始める。
  巡回☆スタートォ!とでも言うのか、バイクや黒や緑や赤や青とカラフルな車がどこからともなく下の道に集まり始める気配
  ・・・
  この街、ぼくらが来てからあからさまに治安が悪くなってないか?
  と問うことは、なんの慰めにもならないのでやめておく。
  それに、来ているのは向こうだ。
エレイ2「さて。どうやって帰るかね?」
  彼が、ぼくと彼女に困惑した声で言う。
  同じ気持ちだった。
瑞「どうにもこうにもね、これじゃ、気楽に買い物も通学も出来そうにないや」
  帰るしかないのはわかっている。だけど、気が滅入るのは確かだ。
婦人3「出版社? あ、印刷会社のトラックなら見かけましたけど、なにか、あったんですか」
  鋭い彼女だった。
瑞「あー・・・・・・ちょっとね、囚われの身でして」
  窃盗容疑までかけやがってまして。脅迫までしやがりまして。
  名誉毀損はもちろんのこと、びっくりするくらいのストーカーですとは言わないが。
婦人3「た、大変ですね」
  目を覚ましてほしいが、お金は人を狂わせると言うから難しいかもしれない。
  傘をさしなおして街を歩く。たまに走った。
  企業自体に問い合わせようかと思った事もあるけど、結局したことは殆どない。
  まさかこんな惨状について、ただ受け付ける相手に、なにを言えばいいというのか。
  明かに裏稼業だしなぁ。
  一市民が余計な暗部を意図せず知ってしまう必要は無い・・・
  外は少し雨が降り始めていた。
   車の気配が、あちこちから、こちらに集まってくる。
瑞「この辺りは建物もないし、まして、天気が悪いから、あのルートは使えないな」
  舌打ちする。
  彼はぼくをちらりと見た。
  見ていただけかもしれない。
エレイ2「まるで人生のようだね」
瑞「やっぱり、 絶望を愛し、諦めて、生きるしかないよね」
  死んでいくだけの身体を、世の中の間違いの権化として。
  それはまるで世界の頂点にたっているような、
   ある意味、悪くない開きなおりだったのでぼくはくすりと笑った。
  買う価値もない幻想より、
  狂った楽しい現実の方が、ずっと価値がある。
瑞「で・・・・・・どっから帰る?」

〇一戸建ての庭先
  いろいろあってウシさんの家に着く頃にはだいぶ夜に近くなっていた。
  ぼくらが訪ねると彼女はなんだか荒れていた。
  やけに目がらんらんと輝いているのにどこか心がないかのようだった。
婦人3「ただいま」
  彼女は、シンプルに帰宅を告げた。
  ウシさんは玄関へとずかずかと歩み寄ってきて――そして叫んだ。
ウシさん3「来るな! あなたのせいだ!」
ウシさん3「あなたが居なかったらよかった、生まれなきゃよかったんだ。存在しなきゃ良かったんだよ。なにしに帰ってきたんです」
  片手には丸く細長い形の受話器を持っているようで、ひどく怒っていた。
ウシさん3「はぁー! もう、山に入らせないとか、なんとか、あの人もこの人も・・・・・・ああ、おしまいだ」
  やはりそうだ。マエノスベテの関わるグループがこの地域一体をまとめていたため、
  ウシさんに権力者として山を貸し出すことを、これまで誰も咎められずに居たのだろう。
  素材を、周辺の山から集めてきていたことに、とうとう住民が不満を募らせたらしい。
婦人3「ウシさんとは手を切ると、言われたのですか」
  彼女は聞いた。
ウシさん3「あんたが、あんたさえおとなしく嫁にでもなりいいなりになれば、全部うまくまとまったのに」
  ウシさんは生気のない目で、そこでぶつぶつぶやくのみだった。
エレイ2「あぁ。お見合いが破綻したから、マエノスベテが見切った、かな」
  彼、が淡々と誰にともなく呟く。
  彼女とマエノスベテとの件、そしてぼくらが手下の男を警察に引き渡したことで、
  あのグループも一旦引き上げることになりウシさんの立場も揺らぎ始めたということらしい。
  (ちなみにこの家に帰るまでのうちに、男から引き出した連絡先もある程度提出しておいた)
  彼が昔世話になっただかならなかっただかいう刑事さんにどうにか連絡をとってもらったのでそのあたりは案外スムーズだった。
  そんなわけだから彼女は身内を売ることになるのだが・・・・・・
  まあ先に売られたのだから仕方がないですねと苦笑い。
ウシさん3「どうするんだい! あんたのせいで私は盗っ人扱いだ、自然のものなのに、」
ウシさん3「管理者なんかいないね、山はみんなのもんだよアホらしい」
ウシさん3「ああ・・・・・・犯罪なんかしてないじゃないか、なんで詐欺師なんて言うんだ、ひどい話だ」
婦人3「あなた、許可をとっているのかと聞かれても、『あの日にも』山や自然の話をして、その管理の話までみんなでしていても」
婦人3「なんにも良心が痛まないんですものね。私も知りません」
  ウシさんが頭を抱えるが、彼女はしれっとしていた。
  しかしウシさんはそんなことよりも彼、の言葉を気にしたらしい。
ウシさん3「お見合いが破綻? まだ、まだ破綻なんかさせないよ、」
ウシさん3「ねぇ今からでも、媚売って来なさいよ、私が悪かったって、」
ウシさん3「ふらふらしてたから浮気なんかさせたけど、私のせいだったとかなんとか、ねぇ、あんたも嫌でしょ私が怒られるの」
婦人3「・・・・・・あれは、兄です」
ウシさん3「え?」
婦人3「マエノスベテの横に居たのは、 櫻さんが懇意にしている、義兄です。あなたもご存じでは」
ウシさん3「なっ・・・・・・」
  ウシさんが唇をわななかせ、顔を青くした。
ウシさん3「なんのことでしょうかね! え? 兄が、なんですか?」
ウシさん3「お兄さんへの中傷は許しがたい。あくまでもあなたの話を私はしているのですよ」
ウシさん3「ここはそういう場面です、ちょっと言ってることがわからない」
婦人3「あなたの主張に対しこちらがそう罪悪を覚えなくてはならないほどのものはないと言っているんです」
  ウシさんは、はぁあ、と呆れとため息を混ぜたような機関車が急に走りだして周りを置いていったような態度を見せた。
婦人3「案外、あの人は義兄がよいのでしょう、だから女の格好までさせて隣に置いていた」
婦人3「ならばそうなされば良いじゃないですか、あなたたちには心底呆れます」
婦人3「私に通じる係累たちの血も流れているでしょうから、私のようなものでは?」
婦人3「私は見合いもしませんし、皆さん破綻を喜んでおられます! 新たな門出、おめでとう」
  彼女は高らかに笑って手を叩く。
  ウシさんは激昂したままに彼女を睨み付け・・・・・・るのを堪えて強引な笑顔を作る。
  それは白々しいものだったがあえて指摘することもないだろうと皆合わせていた。
ウシさん3「考え直しましょうよ、ね? さっき、私に理不尽に怒ったことはまず、謝りなさい」
婦人3「なぜ、謝るのですか? みんなして謀って居るのでしょう。わざわざ女装だなんて、脅すにもばかばかしい」
婦人3「見下げ果てる兄ですね。 私には一切の感情の自由も意思も許さず一生を過ごさせて、」
婦人3「自分達は輪の中で楽しくしたかったでしょうけれど、」

〇一戸建ての庭先
  この通りに破綻しだしておりますから、
婦人3「もはやそうは行きません」

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コメント

  • 瑞は、いわゆるピグマリオンコンプレックスの男の子なのでしょうか。同居のエレンも個性的で謎めいたキャラクターですね。ミステリーとしての謎解きや解決手法などに興味が湧いたので早く読んでみたいです。

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