当たり前は突然に(脚本)
〇電車の中
朝。
私は多くの人に紛れて電車に乗っている。
向かう先は渋谷。私の「当たり前」がある場所だ。
吊り革を握りしめ、私は周りを見た。スマホをいじっている人が大半で、眠っている人もいる。
ただみんなどこか疲れたような顔をしているように見えるのは週末だからなのだろうか。
そう思って窓に映る自分の顔へと視線を移す。
そこにも周りの人と変わらないような顔があった。
「まもなく渋谷。渋谷。足元にご注意ください──」
車内にアナウンスが流れ、電車がホームへと滑り込んで行く。
流れて行くホームの景色に私の顔はかき消された。
〇駅のホーム
駅に着いた電車の扉が開くと、大勢の人が吐き出された。
私もその大勢に紛れて駅のホームに降りる。
電車と外の気温差に私は肩をすぼめ、コートのポケットに手を突っ込んだ。
朝から急いでいる様子の人に追い越されながら、ハチ公口へと続く人の流れに乗って私も足を進める。
と、この時間には珍しく私のスマホが震えた。
見るとメッセージアプリの通知が1件来ていた。
表示されていた名前は見慣れた名前だった。
「おはよう」
ただ一言の短い挨拶。
かれこれ2年付き合っている彼からのメッセージだった。
付き合い始めの頃は朝の挨拶をしていたが、同棲を始めた今では私の当たり前から消えてしまっていた習慣だった。
人混みを避けるように隅の方に移動すると、私はスマホの上に指を滑らせる。
「おはよう。どうしたの?」
「実は言ってなかったことがあってさ、それを言おうと思って」
「言ってなかったこと?なにそれ?言いたい事があったなら家にいる時に言ってくれればよかったのに」
「ごめん。俺も本当はそう思ってたんだけど、なんか面と向かってだと恥ずかしくて」
「恥ずかしいって変な事じゃないでしょうね?」
「変な事じゃないよ。それよりもう渋谷には着いた?」
「うん。着いてるよ」
「そっか。じゃあ改札を出たらまた連絡して」
私は眉をひそめ、マスクの中に隠れた唇を尖らせる。
よくわからないが、私はスマホをコートのポケットにねじ込むとハチ公口の改札へと向かう。
〇改札口
〇渋谷駅前
「出たよ」
私はポケットからスマホを取り出して彼に短い言葉を送る。
「じゃあそこで街頭ビジョンを見ながら少し待ってて」
「?」
私はスマホから視線を上げ街頭ビジョンがよく見える場所まで移動した。
TVなどによく映る有名なスクランブル交差点の街頭ビジョンには、色々な企業の宣伝が流れている。
(街頭ビジョンに何があるんだろう?)
私はそう思いながら少しボーっとしながら街頭ビジョンを眺める。
いくつかの宣伝が切り替わっていく中、渋谷で行われる予定の文化芸術フェスティバルの宣伝が始まった。
様々なジャンルの若手のアーティストに視点を当ててBunkamuraにて開催される総合的なイベントの宣伝だ。
そして実際に作品を出す若手アーティストの短いインタビューも同時に流れる。
「え!?」
自分でも驚くほどの大きな声が出た。
それは街頭ビジョンにあり得ない人が映っていたからだ。
いつもより小綺麗な格好をして、芸術家っぽい丸メガネとニット帽を被っているが、私が見間違うはずがない。
大した収入も実績もないくせに、偉そうに何かを語っているあの人はーーアイツは。
短いインタビュー映像は終わり、別の人に切り替わる。
何か言い知れぬ感情が私の中でわきあがる。
だから私はすぐにスマホを取り出して、彼に電話をかけていた。
「なにあれ?」
感情とは裏腹にやけに短く冷静な声が出た。
電話の向こうの彼が笑う声。
「アシスタントやってる先生が俺の写真褒めてくれてさ。それで俺も調子乗っちゃって、でもそのおかげで展示されるまでいったんだ」
「・・・・・・」
何か言わないと、そう思ったけれども口が開かなかった。
今口を開いてしまえば色んなものが溢れて飛び出しそうだったからだ。
「おーい?聞いてる?」
私の感情なんか全く気づいていない相変わらずの無神経な彼の声に私は眉をひそめた。
だから私は無言で電話を切ってやった。
そして素早く指を動かして彼に4文字の短いメッセージを送る。
「バカ野郎」
そして私はコートのポケットの中にスマホを突っ込んで歩き出した。
(怒ったかな。でも大切な言葉は彼の顔を見て言いたい)
いつもの渋谷。いつもの景色。ここには私にとっての当たり前が溢れている。
でも今日は当たり前だったものが、当たり前の場所で変わった。
〇空
「あーっ、今日はとてもいい天気だなぁ」
私も当たり前じゃない事がしたくなって、朝の人混みの中空を見上げてつぶやいた。
周囲の視線を感じるが気にしない。
私は鼻をすすると前を向いて歩き出した。
当たり前のことも、当たり前じゃないことも、渋谷でおこる。ショパンはホールより自宅演奏が多かったそうですが、そういう読後感となりました。感謝。
当たり前がなくなるという悲しい話ではなく、当たり前の大切さを教えてくれる物語だったと思います😌
何気ない1日も宝物ですね😊
当たり前が当たり前でなくなる時、それは新鮮な出来事の始まりである。毎日を何となく過ごしている僕としては、この二人の生活がなんだか羨ましい限りです。