エピソード5:帰郷(脚本)
〇ソーダ
???「もし、あなた」
そう呼び止めてきたのは、清楚な女性だった。
手には花を抱えている。
知らない女性「あなた 覚えていないでしょうけれど、私です あの頃、あなたと共におりました、私です」
縋るように言う彼女には不憫だが、全く覚えがない。
知らない女性「ああ、やっぱり覚えておりませんか」
知らない女性「私、あなたを待ちました 花が咲いても散っても、また芽吹いても、あなたはちっとも会いに来てはくださらなかったもの」
彼女の長い黒髪が靡く。
白く細い指が青々とした茎に沿えられている。
知らない女性「あなたが必ず帰ると言ったから、あの家で一人待ちました」
彼女と暮らした記憶はない。
それ以前に、誰かと暮らした記憶もない。
知らない女性「私が十五の頃でした 初めてお会いしたとき、私は俯いてばかりで、あなたのお顔をちっとも見ませんでした」
知らない女性「側の者たちは良い顔をされませんでしたけれど、あなたは私を慎ましいと言って笑み、爪弾きもせず傍らに置いてくださいましたね」
彼女の唇は赤く、頬は桜の色をしていた。
その色を懐かしく感じる。
母も知らず、独り身の自分には、そのような色に縁などないのに。
知らない女性「私が塀の土を弄るものですから、いつも野良のようで見窄らしかったでしょう それをあなたは健やかと言って、庭をくださりました」
知らない女性「ねぇ、あなた。覚えてはおりませんか ちっとも覚えてはおりませんか」
知らない女性「私、あなたの遠のく背を見送るそのときも、これを持ちました 私の最後まで、これを持ちました」
知らない女性「あなたがくださいました庭で あなたが良いと、愛いと言った花々を」
知らない女性「あなたが帰った頃に咲き乱れる庭でお迎えしたく、世話をみました」
仄かに花の匂いが漂う。
知った匂いだ。
しかし、何の匂いだったか。
誰かがその花を教えた気がするのだが、どうにも思い出せない。
目の前の彼女は知っているのだろうか。
知らない女性「あなた ねぇ、あなた」
知らない女性「焼けた地は暗かったでしょう 熱かったでしょう」
知らない女性「土塊のように頬も掌も黄色くなって、水仕事の比ではなく裂け、真っ赤な血が、まだ生きるあなたを証明するよう流れたのでしょう」
知らない女性「ねえ、あなた 私の旦那様」
知らない女性「私の庭にお帰りあそばせ」
〇実家の居間
目を覚ましたとき、自分が今どこにいて、それまでに何があったのかもぼんやりとしていた。
静かに天井を見つめながら、美しい彼女のことを思い出していた。
艶のある長い黒髪、白い肌と細い指、紅の引かれた小さな唇と桜色の頬、細めた目と薄い笑み、淡々とした声。
慎ましくも気品のある女性だった。
知らない少女「おじいちゃん」
見知らぬ少女が呼びかける。
不思議なことに、どことなく先ほどの彼女に似ている気がする。
声も髪の長さも装いも異なるが、目元などがよく似ている。
唇も、怒るような拗ねるような、そんなときに付き出す様がよく似ている。
知らない少女「まぁたこんなとこで寝て 風邪引くからコタツ入りな」
そう言って少女は、椅子から立ち上がるのを支えながら、背に手を回し、もう片方で手を引く。
知らない少女「ママがもうすぐごはんだって」
知らない少女「今日、デイサービスの日じゃないって言ってたから、ちゃんと食べなね 夕方には私たち帰っちゃうから」
再び座ると、足元から腹のあたりに布がかかって温かかった。
少女が少し前のところに座り何かを話している。
先の方に置かれた四角い板の中でも、小さな人たちが代わる代わる出てきて談笑している。
知らない少女「誰もいなくなっても、夜におばちゃんが来るまで、ちゃんと待っててね」
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夢と現実、過去と現在、それらを繋ぐ香り。
香りは確かに、過去や記憶を一瞬で呼び起こしてくれることがありますよね。ステキなお相手とのステキな香りの記憶、心が震えるようです