竜胆の花言葉(脚本)
〇山中のレストラン
樋口雅臣「・・・・・・」
御来優希「え、ええっと・・・樋口さん?」
樋口雅臣「あ? なに?」
御来優希「あ、いや──どこに行くんですか?」
樋口雅臣「ここ」
御来優希「・・・はい?」
樋口雅臣「ここだよ、俺の行きつけのバー」
御来優希「バ、バー?」
樋口雅臣「バーバーじゃねえぞ。酒呑むところ」
御来優希「(・・・今のは冗談だよな?この人、わかりにくいから苦手なんだよ──)」
御来優希「(──っていうか、バーって雰囲気じゃないけど・・・やたら広いし・・・)」
御来優希「(ま、まさかホテル──!?)」
御来優希「(あり得るな、なんか結構な郊外まで連れて来られちゃったし・・・)」
樋口雅臣「おい、何してんだ。早く入るぞ」
御来優希「えっ!? いや、やっぱり俺、やっぱり──」
樋口雅臣「なんだ、やっぱりやっぱりって。ほら、変なことしねえって」
御来優希「(いやいや、「変なことしない」って概念がある時点で、変なこと考えてるだろ!)」
山戸一樹「いらっしゃいませ・・・あぁ、樋口くんですか。今日は──と、お連れ様がいらっしゃったんですね」
樋口雅臣「どうも、マスター。 ──奥、いいかな?」
山戸一樹「ええ、もちろん」
御来優希「(お、奥──?)」
山戸一樹「お飲み物はいかがされますか?」
樋口雅臣「こいつ、あんまり強い酒は飲めないから・・・あんたの得意なやつ作ってやってよ」
山戸一樹「──ふ、かしこまりました」
御来優希「(あ、笑い方に品がある)」
御来優希「(顔立ちも綺麗な人だなぁ。体つきは男の人っぽいけど、長身細身だしモデルって言われても違和感ない)」
御来優希「(声にも色気があって、年齢はよくわかんないけど、バーのマスターってわりには若そうなのに、なぜかしっくりくる)」
樋口雅臣「──じゃ、行くか」
御来優希「えっ?」
ぼうっとしている俺が連れて行かれたのは、
もう一枚扉の向こう、
通称『奥』と呼ばれる場所だった──。
〇ジャズバー
御来優希「・・・・・・」
御来優希「(ム、ムーディーな曲が流れている・・・)」
御来優希「(けれど、まぁ見た感じ普通のバーかも。今は誰も演奏してないけど、こういうところも案外悪くな──)」
御来優希「(・・・ん?)」
御来優希「(・・・男、しかいない)」
御来優希「(いや、待て。別におかしなことではないよな、おかしなことでは・・・)」
御来優希「(でも、ほとんど男同士の二人連れだし、どう見ても恋人みたいな雰囲気を醸し出してる奴らもいるし──)」
樋口雅臣「ほら、そこ座れよ」
御来優希「──ひゃっ!?」
樋口雅臣「ははっ、なんだよ。可愛い声出すなよ」
御来優希「か、かわっ・・・あの、急に触るのやめてもらえませんか。何度も言ってますけど・・・」
御来優希「(触るっていうか、肩を抱かれてるっていうか、ほんとこの人こういうスキンシップが多いんだよな・・・)」
御来優希「(可愛いとか、俺は女じゃないっつうの)」
樋口雅臣「なあ、御来はどう思う?」
御来優希「・・・何がですか?」
樋口雅臣「だから、あの話だよ」
御来優希「・・・あの話?」
御来優希「(本当はわかっている。けれど、俺が覚えていると言えば、それはイコール同意になってしまう気がするから)」
御来優希「(だから、絶対に言わない。言えない)」
樋口雅臣「だから、お前がモデルになるって話。今はスタイリスト見習いにしてるけど、お前なら表の世界でもやっていけると思うんだよな」
樋口雅臣「ま、それも俺の腕があればだけど」
御来優希「(とか言って、試しにって着せて来た服はどう見ても女性物だったじゃないか)」
御来優希「(女性モデルに着せるんなら、俺を練習台にしたって意味ないのに)」
樋口雅臣「お前、身長もそんな高くないし細身だし、顔も女っぽいし、悪くないと思うんだよなぁ」
御来優希「──そうやって、また俺を女扱いするんですか?」
樋口雅臣「・・・は?」
御来優希「俺は、──俺は、女じゃない!」
御来優希「モデルになるつもりもないし、女性の服を着る趣味もない!もう、放っといてくれよ!」
樋口雅臣「えっ、あっ、おい!」
俺はそのまま奥の部屋を飛び出した。
店を出る瞬間、
心配そうなマスターの顔が
見えた気がしたけれど、
振り返る余裕もなく、
俺はただ走った。
どうやって帰ったのかは
覚えていない。
無我夢中で家に着いた時には、
もう日付が変わっていた。
〇シックなバー
樋口雅臣「・・・・・・」
山戸一樹「・・・・・・」
樋口雅臣「・・・なぁ、マスター」
山戸一樹「はい?」
樋口雅臣「・・・何がいけなかったんだろうな」
樋口雅臣「俺は別に女扱いするつもりはなかったんだよ」
山戸一樹「はい」
樋口雅臣「ただあいつ後輩として可愛いし、いろいろ世話焼きたくなる奴で・・・」
山戸一樹「樋口くんは勘違いされやすいですからね。言葉が足りないというか──」
山戸一樹「モデルに誘ったのも、あなたが彼を気に入っている以外に、何か理由があるんでしょう?」
樋口雅臣「・・・はは、さすがマスター。何でもお見通しなんだな」
樋口雅臣「あいつ、いつも自信なさげにしてるし、女っぽいみたいに言われると過剰に嫌がるし、」
樋口雅臣「けど、そんなお前だからこそできることもあるんだって、もっと自信を持てって、言ってやりたかっただけなんだよ──」
山戸一樹「・・・もしかしたら、『中性的な容姿』が彼の一番触れられたくないところなのかもしれませんね」
樋口雅臣「・・・えっ?」
山戸一樹「コンプレックスというか──。前髪で目を隠しているのも、あえて男らしい服を着ているのも、きっとそれを隠したいからでしょう」
樋口雅臣「・・・よくわかるな、初めて会ったのに」
山戸一樹「・・・ここにはそういう子も多いですから」
樋口雅臣「・・・あぁ、あの子たちか」
山戸一樹「ええ。心の一番深いところに──自分が曝け出したくないところに触れられると、途端に強い拒絶反応が起きる」
山戸一樹「彼らがこれまでの人生の中で抱え込んでしまったコンプレックスは、そう簡単に消えるものではないでしょう」
山戸一樹「たとえあなたにそのつもりはなくても、彼にとってそう受け取れる言葉や行動であったとしたら、誤解を解くのには時間がかかります」
樋口雅臣「ま、同じ職場で働いてるんだし、時間ならたっぷりある」
樋口雅臣「俺は俺のやり方であいつを認めてやりたいと思ってるよ」
樋口雅臣「俺じゃうまくいかないかもしれないが──」
山戸一樹「言ったでしょう。樋口くんは誤解されやすいだけです。彼がちゃんとあなたと向き合えるようになれば、必ずわかってもらえますよ」
樋口雅臣「はは、ありがとな。やっぱりあんたと話すと悩みが吹っ飛ぶよ。お悩み相談室でも開いたら?」
山戸一樹「いえいえ、私は話を聞くだけで、何もできませんから」
山戸一樹「せめて、目の前のあなたの幸せを願うことくらいしか──」
樋口雅臣「いや、そういうところだよ。少なくとも、あんたならあいつらを傷つけないだろ」
山戸一樹「──それはどうでしょうか。私も知らず、彼らの弱さに触れているのかもしれませんよ」
樋口雅臣「・・・だとしても、地雷は踏まないだろ?というか、あんたと話して不機嫌になる奴は今まで見たことがない」
山戸一樹「そう見えているのであれば、私はきっと、その方の深くを探らないようにしているのでしょう」
樋口雅臣「本当は探らなくても見えてるのに?」
山戸一樹「・・・それはどうかわかりませんが、せめてこの店にいる間は、日常の瑣末なことを忘れられる時間であって欲しいので」
樋口雅臣「そうだな。俺もそう思う。あいつが気にしてる瑣末なことが、あいつにとっても瑣末なことになればいい──って」
樋口雅臣「だからここに連れて来た」
樋口雅臣「──あんたみたいな人なら、あいつのことも助けてやれるんだろうな」
樋口雅臣「あいつの容姿ならこれからもたぶんずっと言われ続けるだろう」
樋口雅臣「あいつは頑張り屋だし、俺たちみたいな業界にいたら、嫌でも『中性的な容姿』は武器になるからな」
樋口雅臣「俺はあいつにその武器で闘えって言ってるんじゃないんだ」
樋口雅臣「・・・うまく言えねえけど」
山戸一樹「戦うのではなく、守れるようになればいいですね」
樋口雅臣「そう、それだよ!!」
樋口雅臣「あんた、やっぱりあの話考えてくんない?」
山戸一樹「・・・それとこれとは話が別ですから」
樋口雅臣「ちっ、つれないなぁ・・・」
〇撮影スタジオ
あの後──
樋口さんと別れた後、
俺はあのバーのことを調べてみた。
けれど、ネットを隈なく漁って
ようやくわかったのは結局、
俺を余計に混乱させるものだった。
『女人禁制のホストクラブ?』
『男だらけの秘密の花園?』
『若者の更生施設?』
どれをとってもピンと来ない。
けれど、
どれをとってもしっくり来るとも言える。
見た感じ、女性は一人もいなかった。
それに、奥に通じる前の
マスターがいたカウンターのある部屋──
あそこには人待ち顔の男の子が
たくさんいた、ような気がする。
彼らが俗に言う『ホスト』なのか
定かではないけれど、
一人であの店に行っても
選び放題なのは確かだった。
それにその子たちはみんな同じ、
昏い目をしていて、強ち『更生施設』も
間違っていない気がする。
御来優希「(樋口さんはなんであんなところに、俺を連れて行ったんだろう)」
御来優希「(俺を女として見てるわけじゃない?だとしたら、男として恋人にしたいとか?)」
俺は樋口さんの意図がわからなくて、
あの日から悶々と同じことを
繰り返し考えている。
男性モデル「──ねえ、ねえって」
御来優希「あっはい、すみません」
男性モデル「まだ何も言ってないし、謝ることないよ。 それよりさ、一緒に食事どう?」
御来優希「・・・はい?」
男性モデル「いや、君可愛いからさ。どう?」
御来優希「(あんまりこういう誘いを断るなって言われるけど、気が向かないんだよな・・・)」
男性モデル「ね、ご馳走するからさ!」
御来優希「・・・っ!?」
御来優希「(耳元で囁くなよ。変な誘いじゃなくても、そう見えるだろ・・・)」
御来優希「・・・そんなご馳走だなんて、申し訳ないですよ」
御来優希「(ここは遠慮するふりして、なんとかこの場を逃れ──)」
男性モデル「いいのいいの、話したいことあるからさ。ね、一回だけでいいから」
御来優希「・・・じゃあ、はい、よろしくお願いします」
男性モデル「うんうん、いい返事。これからもそれで頼むよ〜?」
御来優希「(これからも、って一回だけって言っただろ!)」
〇レストランの個室
男性モデル「・・・ってことがあってさあ〜」
御来優希「(話したいことって何だよ・・・早く本題に入れって。さっきから俺、愛想笑いしかしてないだろ)」
男性モデル「──ところでさ、君、御来くんだっけ?下の名前は、なんていうの?」
御来優希「・・・優希ですけど」
男性モデル「へえ、ゆうきくんかぁ。どう書くの?」
御来優希「『優しい』に『希望』の『希』です」
男性モデル「名前も女の子みたいで可愛いね。ゆうきちゃんって呼んでもいいかな」
御来優希「(嫌でも呼ぶだろ)」
男性モデル「ゆうきちゃんはさぁ〜」
御来優希「(ほら、返事も聞かない。どうせ、俺の意見なんてあってないようなもんだもんな)」
男性モデル「なんでスタイリストなんて裏方やってんの?」
御来優希「・・・はい?」
男性モデル「いや、だからさ──もったいなくない?せっかく可愛い顔してるし、君ならモデルでもいけると思うんだけど」
男性モデル「あ、なんなら事務所紹介しようか?」
御来優希「えっ? あ、いや結構で──」
御来優希「(──俺がどんな思いでこの仕事選んだか知らないくせに)」
男性モデル「君と一緒に働きたいんだよ。どう?」
御来優希「いや、今だって一緒に働いてるじゃないですか」
男性モデル「そうじゃなくて──」
御来優希「──なっ!?!!?」
御来優希「(こいつもか──樋口さんもそうだけど、男の肩抱くの流行ってる?)」
男性モデル「可愛い声出すじゃん?モデル同士なら、公式にこうして密着して、撮影できるだろ?」
御来優希「(女性モデル同士ならともかく、男性モデル同士ではあんまり見たことないだろ。そこまでやったらアイドルのファンサ並だよ)」
男性モデル「ゆうきちゃん、いい匂いするよね。前から近づくたびに思ってたんだ」
御来優希「(──また女みたい、って言うのか?)」
男性モデル「髪も綺麗だし、細身だし。モデルになったらモテるよ〜。ゆうきちゃんの場合は、女の子より男にモテるかもね?」
御来優希「(だって女みたい、だから──?)」
男性モデル「だって──ゆうきちゃん、女の子みたいだから」
御来優希「──っ!!!」
御来優希「いい加減にしてくれよ!」
男性モデル「・・・は?」
御来優希「俺は女じゃない!」
〇川に架かる橋
御来優希「──はぁ、はぁっ」
御来優希「・・・・・・」
『女みたい』って言われると、
無性に腹が立つ。
『女みたい』って言われると、
どうしようもなく哀しくなる。
自分でもどうしていいかわからなくて、
何かにぶつけたい激しい怒りを抑えて、
その場から逃げ出すことしかできない。
いろんな感情が渦巻いて、
怖くて苦しくて仕方なくなって、
もう大人なのに、
大人になれない自分が
恥ずかしくて、
今度は自己嫌悪で
押しつぶされそうになる。
御来優希「・・・・・・」
山戸一樹「・・・風邪、ひきますよ」
御来優希「・・・・・・?」
大きな傘に隠れて顔が見えない。
ただうるさいくらいの雨音のなか、
不思議とはっきりその声は耳に届いた。
山戸一樹「そんなにずぶ濡れでは、風邪をひいてしまいます。私の店がすぐそこですから、良かったら雨宿りでも──」
御来優希「・・・あなたは──?」
山戸一樹「ただの通りすがりですよ」
御来優希「・・・・・・」
山戸一樹「それともご自宅までお送りしましょうか?」
御来優希「・・・・・・」
首を振ったのか、頷いたのか、
自分でもよくわからなかった。
一人になりたい──。
けれど、この人の優しくて凛とした声が
なんだかとても安心できて・・・。
もっと聴きたい、聴いていたい──。
どれくらい時間が経っただろう。
この人は何もせずに
俺が歩き出すのをじっと待っていた。
その間、俺にずっと傘を差し掛け、
はみ出た肩が濡れるのも気にせず、
重そうな荷物を抱えたままずっと──。
御来優希「(・・・そういえば無我夢中で飛び出して来たけど、ここはどこなんだろう?)」
御来優希「(この景色、見たことあるような気もするけど)」
ふらりと一歩踏み出したのは無意識で。
隣の男性は俺を誘導するわけでもなく、
ただ歩みを任せて
そっとついて来てくれる。
なんとなく立ち止まったその場所は──。
〇山中のレストラン
御来優希「あ、ここは──」
山戸一樹「私の店ですよ。一度、いらしてくださいましたね」
上品に閉じられた傘の向こう、
ようやく見えたその顔は──
あの日、樋口さんと来たこのバーの、
マスターの穏やかな笑みそのものだった
御来優希「・・・あの時は、その──」
山戸一樹「──どうぞ。中はあたたかいですよ。シャワーもありますから、使ってください」
〇シックなバー
山戸一樹「・・・・・・」
御来優希「・・・あ、あの、この服──」
山戸一樹「ああ、気にしないで使ってください。ここによく出入りする子のために買っておいたもので、まだ新品ですから」
御来優希「──よく出入りする子?」
山戸一樹「ええ。──ここにしか居場所のない子たちの一人です、今はまだ・・・ね」
御来優希「・・・それって、どういう?」
山戸一樹「そのままの意味ですよ。ここはあの子たちが外の世界で生きていけるようになるまでの、一時的な避難場所なんです」
御来優希「外の、世界?」
山戸一樹「──ココア、お好きですか?」
御来優希「えっ?」
山戸一樹「ココアです。お酒は飲めないと伺ったので。こういう寒い日はあたたまりますよ」
山戸一樹「服が乾くまで少し時間がかかりますから。ゆっくりお話しましょう」
御来優希「・・・じゃあ、お言葉に甘えて」
御来優希「──お、美味しい」
山戸一樹「ふふ、ありがとうございます」
それからしばらく
心地の良い沈黙が続いた。
マスターは自分から話さない人らしく、
柔和に微笑みながら
丁寧にグラスを拭いている。
俺もココアの甘い香りと
店の雰囲気に身を委ね、
ほっと息を吐いた。
御来優希「(でも、なんでこんなところに店を?さっきのレストランといい、おしゃれな街ではあるけど、都心とは言い難いよな・・・)」
山戸一樹「気になりますか、この店が──?」
御来優希「えっ」
マスターは確かにこちらを向いているけど、
俺を見ているわけじゃない。
それなのに、まるで俺の心を読むかのように
ゆったりと視線が交わされた。
御来優希「・・・不思議な、お店だな──と思います」
山戸一樹「何も知らずにいらした方は、皆さんそう仰います」
御来優希「何も、知らずに──?」
山戸一樹「ええ。ここには色んなお客様がいらっしゃいますが、一見さんは珍しいんですよ」
御来優希「でも、初めてでも入れないわけじゃないんですよね?」
山戸一樹「もちろん──ただ、ほとんどは常連のお客様とご一緒されますから、全くの初めてという方はいらっしゃらないんですよ」
山戸一樹「この店は宣伝を一切していないので、そもそも店の存在を知られていませんから」
御来優希「紹介制──ってことですか?」
山戸一樹「いえいえ、そこまで大層なものでは。ただ、先ほども言いましたが、ここは誰かにとっての避難場所なんです」
山戸一樹「あの子たちだけではなく、この店にいらっしゃる全ての人にとって──」
山戸一樹「少なくとも私は、誰にもいえない秘密を抱える方が、その秘密を気にせず過ごせるような、そんな場所であればいいと思っています」
山戸一樹「この店の存在を知る人は皆、それぞれ悩み、苦しみながら、日常を送っている方々ばかりです」
山戸一樹「同じ想いの人しかいない場所なら、こんな自分にも居場所がある──皆さん、そう言ってここでの時間を過ごされます」
御来優希「あ、だから──」
山戸一樹「はい?」
御来優希「だから、女性がいないんですか?」
山戸一樹「──よく、わかりましたね」
御来優希「最初に来た日からなんとなく気になってはいたんですけど、そんな理由があったなんて・・・」
山戸一樹「男性同士でも人目を気にせず気兼ねなく過ごせる、相手がいなくてもここに来れば話し相手を見つけられる」
山戸一樹「そんなお客様と同じように、居場所のないあの子たちも、唯一安らげるこの場所で、いつも誰かを待ってるんです」
御来優希「──誰か?」
山戸一樹「ええ。その『誰か』は一人一人違うでしょうけれど」
山戸一樹「話し相手や友達、自分を否定しない『誰か』や、もしかしたら自分を心から愛してくれる『誰か』かもしれません」
御来優希「・・・マスターならどの役目もこなせそうですけど」
山戸一樹「いえいえ、私にはできませんよ。私にできることはただ一つ──」
山戸一樹「あの子たちやお客様が、ほんの少しでも幸せな気持ちで過ごせるように、この店を守ること──それだけです」
御来優希「・・・・・・」
いろんな噂があったけれど、
どれをとっても、ネットで
好き勝手言われるようないかがわしさは
微塵も感じられなかった。
男性向けのホストクラブだとか、
若者の更生施設だとか、
そんなのは外側だけ見た人間たちの
至極おめでたい発想で。
彼らはきっと同じような苦しみを
味わったことがないんだろう。
きっと今まで
一切の絶望を知らずに
幸せに暮らして来たんだろう。
羨ましくない、と言えば嘘になる。
俺だってできることなら
そうでありたかった。
けれど、
人の痛みを一緒に分かち合える──
そんな居場所があることもまた、
幸せだと言える気がする。
こんなことを考えたのは
人生で初めてだと思う。
何もかも曝け出したわけではないのに、
全てを見透かされているような──。
それなのに、
不快感を覚えるどころか、
とても心が安らいで──。
この人の言葉が
とてもあたたかくて、
ココアのように
そっと胸に染み込んでいく。
さっきまでの息苦しさが
嘘みたいに消えて
いつの間にかなくなって。
もっとこの場所にいたい。
この場所なら、俺は俺でいられる。
そんな気がするから──。
御来優希「・・・俺も、たまにここに来ていいですか?」
山戸一樹「もちろん、いつでもお待ちしています」
山戸一樹「奥の部屋でゆっくり語り合うのも、カウンターでひとり静かに過ごすのも、あなたの自由です」
山戸一樹「──願わくは、樋口くんともう一度いらしていただけたら嬉しいのですが・・・」
御来優希「・・・どうしてマスターが嬉しいんですか?」
山戸一樹「言ったでしょう。ここに来る皆さんに幸せであって欲しいと──」
山戸一樹「樋口くんにも、あなたにも、幸せに過ごしていただくためにも、ぜひ──」
御来優希「・・・考えておきます」
山戸一樹「無理にとは言いませんが、きっとお二人にとって有意義な時間になると思いますよ」
御来優希「・・・マスターって、本当に不思議な人ですね」
山戸一樹「そう、でしょうか?」
御来優希「そうですよ。マスターがそう言うならそうなのかも、って思うんだから・・・初めてちゃんとお話したのに、不思議ですよ」
山戸一樹「よく、『詐欺師か弁護士になれる』と言われます」
御来優希「えっと・・・冗談ですよね?」
山戸一樹「──おそらく。ですが、私にとってはむしろそちらのほうが、幸せかもしれません」
御来優希「えっ?」
山戸一樹「いえいえ、何でもありません。そろそろ服が乾く頃合いですが・・・もう遅いですから、泊まって行かれてはいかがです?」
御来優希「えっ、あ、いや──そんな申し訳ないです。せっかくのお休みの日にこんなに良くしていただいただけでも十分で・・・」
山戸一樹「お気遣い痛み入りますが、生憎、終電がなくなってしまいましたよ」
御来優希「えっ・・・」
山戸一樹「この辺り、都心より一時間ほど終電が早いので」
御来優希「・・・・・・」
山戸一樹「私が寝泊まりしている部屋でよければ、狭いですが寝られないことはありません。遠慮なく使ってください」
御来優希「えっ、でも、マスターは・・・?」
山戸一樹「私は慣れていますから。夜通し起きていても苦になりません」
御来優希「ここで寝泊まりしてるって・・・お家には帰らないんですか?」
山戸一樹「・・・・・・」
御来優希「あっ、いや、詮索するつもりは──答えたくないことだったらすみません・・・!」
山戸一樹「いえ、いいんですよ。そうですね。帰る家があれば、私はそもそもこの店にはいないかもしれませんね」
御来優希「・・・・・・?」
〇シックなバー
山戸一樹「・・・・・・」
山戸一樹「──はい、バー『YAMATO』です」
山戸一樹「・・・はい、ええ、わかっています」
山戸一樹「・・・もちろん、仰せのままに──」
山戸一樹「・・・はぁ・・・」
御来優希「(──聞く、つもりはなかったんだけど)」
真夜中の着信音──。
明るいところで聞く
耳心地のいい声は今、
夜の帳のごとく暗く、低く
俺の元に届いた。
御来優希「(それでもやっぱり、綺麗に澄んでるんだよなぁ・・・)」
御来優希「(大人の男性らしい色気もあって──)」
それが真夜中だからなのか、
それとも電話の相手によるものなのか。
俺にはわからなかった。
けれど、ドアの隙間から覗く
マスターの背中は
どこか哀しげに見えた。
それでも俺にはどうすることもできず、
彼の囁きに導かれるようにいつの間にか
眠りについてしまっていた。
〇撮影スタジオ
樋口雅臣「〜〜〜♪」
御来優希「・・・樋口さん」
樋口雅臣「ん? ──って、おお、御来!どうした、お前から声かけてくるなんて珍しい」
俺があんな態度をとったのに、
樋口さんは相変わらず
距離感近めで接してくる。
でも、なぜか前のように
嫌な感じはしない。
マスターが言うように
樋口さんともっとちゃんと
向き合ってみよう──。
そう思ったら急に、
今までの樋口さんの言葉にも行動にも
悪意も無邪気さもないことに
気がついた。
もう樋口さんと働いて数年が経つのに
今さらだけど──
俺の中の何かが変わったんだと思う。
うまく説明できないけれど、
心のどこかがすっきりしてる。
そう、強いて言うなら、少しだけ
俺の心に余裕ができたのかもしれない。
御来優希「あの、この間連れて行ってくれたバー、もう一度行きませんか」
御来優希「あの時はすみませんでした。俺、もっとちゃんと樋口さんと話してみたくて──」
樋口雅臣「・・・・・・」
御来優希「えっ!? ちょ、なんで泣きそうなんすか!」
樋口雅臣「いやぁ、待ちに待った日がようやく来たと思ってよ──」
御来優希「・・・言っておきますけど、あの話を受けるわけじゃないですからね」
樋口雅臣「わかってるわかってる。いいんだよ、それで。マスターも喜んでくれるよ。お前のこと、心配してたから──」
御来優希「・・・心配?」
樋口雅臣「まぁ、なんだ、あの人はそういう人なんだよ。だいたい誰かの世話を焼いてる。たぶん意識せずに」
確かに、あの人のそばにいると
どうしてか晴れ晴れとした気持ちになる。
あの人自身が特別何かしたわけじゃない。
でも、あの人は俺が欲しい言葉をくれる。
俺さえも気づいていない、
ずっと誰かに
言って欲しかった一言を──。
自然にありのままの自分で
誰かを幸せにできる、って
素敵な人だと思う。
御来優希「マスターって何者なんですか?」
樋口雅臣「さあなあ。いろいろ噂はあるけど、どれも定かじゃない上に、どれもあんまりいい噂じゃないんだよな」
御来優希「いい噂じゃない?」
御来優希「(あんなに人間として、出来た人なのに──?)」
樋口雅臣「誰に聞いても人間性は最高MAXの評価だけど、生い立ちについてはみんな口を揃えて『知らない』の一点張り」
樋口雅臣「いざ答えてくれたと思えば、『莫大な借金のために悪魔に魂を売った』とか、『資産家の愛人』とか、『正義のヒーロー気取り』とか」
樋口雅臣「あんまりにも非の打ち所がないもんだから、作り話に拍車がかかって広まっちゃったんだろうな」
樋口雅臣「とはいえ、マスターを知ってる人ならみんな、あの人の過去がどうあれ、今のあの人に感謝してるはずだよ」
樋口雅臣「なんたって、俺たちみたいな秘密を抱える人間にも居場所をくれるんだから──」
御来優希「・・・『俺たちみたいな』ってことは、やっぱり樋口さんも?」
樋口雅臣「同性愛者かって?まぁ否定はしないけど、俺は別に恋人が欲しいってんじゃない」
樋口雅臣「ただ自分が同性愛者であることを気にせずいられる場所がずっと欲しかった。俺にも悩んでた時期があったんだよ」
樋口雅臣「俺はおかしいんだ、はみ出し者なんだ──一生、自分に嘘ついて生きていくしかないんだ──って」
樋口雅臣「結婚相手も恋人も、そばにいてくれる『誰か』さえも見つけられずに、たった一人で年取ってたった一人で死んでくんだろうって──」
御来優希「(──この人も俺と同じなんだ)」
御来優希「(・・・俺は『女の子』みたいってよく言われるけど、どうしてそれが嫌なのか、自分でもわからない)」
御来優希「(自分で自分がわからなくなって、でもそんな自分を他人に知られたくなくて──いつの間にか周りには誰もいなくなって)」
御来優希「(だんだんひとりぼっちになっていくのがわかる、あの感覚──)」
御来優希「(──俺も知ってる)」
〇山中のレストラン
樋口雅臣「・・・あれ?」
御来優希「──お店、閉まってますね」
樋口雅臣「珍しいな・・・。マスターの都合か、定休日以外にも営業しない日はあるんだが、店ごと閉めてるなんて今までなかったぞ」
樋口雅臣「──あ、なんだ?こんな夜中に」
樋口雅臣「──トラブル?何があった、早く言え」
樋口雅臣「──あぁ、あいつか・・・。それだけじゃない?なんだよ、コンテストで使う衣装がどうしたって?」
樋口雅臣「──わかった、すぐ戻る。御来? あぁ、一緒だから俺から伝えとく。ん、サンキュ」
御来優希「・・・樋口さん、何かあったんですか?」
樋口雅臣「お前、スマホの電源切ってるだろ」
御来優希「えっ・・・あ、そういえば、仕事中に切ったまま入れてませんでした。すみません」
樋口雅臣「いや、いい。今回はラッキーだった。俺にも、お前にもな──」
御来優希「はい?」
樋口雅臣「いいか、俺はすぐ仕事に戻る。お前はここでマスターを待て」
御来優希「えっ? 待つ、んですか? ここで?」
樋口雅臣「あの人、携帯持ってないんだよ」
御来優希「・・・今時? 連絡手段の一つも?」
樋口雅臣「あるのは店の中の固定電話だけ。ま、元からミステリアスな人だし、俺が学生時代からあの店にいる人だから、もう慣れたけど」
御来優希「・・・・・・え、あの人いくつですか?」
樋口雅臣「さあ? ま、少なくとも俺よりは上だな」
御来優希「(いや、うん・・・くん付けで呼んでたもんな。樋口さんより上なのはわかるけど、どうもそうは見えない)」
御来優希「(かと言って、あんな大人の対応ができる人だし、俺に年齢が近いとも思えない・・・まさに『年齢不詳』──)」
樋口雅臣「ともかく、あの人の様子を確かめるまでお前はここにいろ。こっちのことは気にすんな。終わったらこの店に連絡入れるから」
御来優希「えっ、この店? なんで、俺の携帯に──」
樋口雅臣「んじゃ、頼んだからな!」
御来優希「えっ、ええぇ・・・」
御来優希「(でも、確かにマスターの様子は気になる・・・どこか具合でも悪いのか?)」
御来優希「(しばらく、ここで待ってみるか──)」
──数十分後
御来優希「・・・・・・」
──ガタンッ!
御来優希「なっ、なんだ!?」
御来優希「(み、店の中から聞こえたような──)」
御来優希「(入ってみるか──?)」
〇シックなバー
山戸一樹「・・・っ、はぁ・・・」
御来優希「・・・お、お邪魔しまぁす──」
山戸一樹「・・・えっ、御来くん?」
御来優希「(あ、やっぱり、いた・・・それに、名前──知っててくれたんだ?)」
御来優希「(・・・いや、じゃなくて! 姿は朧げにしか見えないけど、声がいつもより弱々しく聞こえる)」
御来優希「(──あの、凛とした声が好きなのに)」
御来優希「(でも、変に吐息混じりで苦しそうな感じがするし──)」
御来優希「マスター? どこか具合でも悪いんですか・・・?」
山戸一樹「えっ、あ、いえ──そんなことは・・・」
御来優希「でも、営業日にお店休むなんて珍しいって樋口さんが──」
山戸一樹「樋口くん? あぁ、一緒に来てくれたんですね。そうですか、よかった。すみません、こんな時に開けられなくて──」
御来優希「いや、そんなことは──樋口さんも急なトラブルで仕事に戻りましたし」
山戸一樹「そう、ですか──」
御来優希「それより、マスターは大丈夫なんですか?」
山戸一樹「・・・あっ、危ないですよ──」
御来優希「えっ?」
足元で何かが砕ける音がした。
パシャリと音がして、
床に目を凝らしてみる。
どうやら
割れたワインボトルが
転がっているようだった。
それだけじゃない。
目が慣れた暗闇を見渡してみると、
店の中はひどい有様だった。
知らず、鼓動が速くなる。
御来優希「──なんでこんなことに・・・マスター、怪我は!?強盗ですか!?それとも酔った客が暴れたとか!?」
山戸一樹「え、あ、いや、そんなんじゃ──」
俺は無意識にマスターに近づき、
存在を確かめるように
肩から腕の辺りにかけて手を滑らせた。
山戸一樹「──っ!!」
御来優希「えっ、あ・・・痛いですか!?」
山戸一樹「いえ・・・」
御来優希「嘘つかないでくださいよ、怪我してるじゃないですか。ほら、見せて──」
山戸一樹「あ、こら、やめなさ──」
袖を捲ってみると、
触れた辺りまで見ることもなく、
腕全体にまばらに痣があるのがわかった。
新しいものから、古いものまで──。
俺はあまりのショックに固まってしまった。
思わずマスターの顔を見ると、
相変わらず綺麗で痣一つなくて──。
余計に痛々しさが増した気がした。
なんだか、息苦しい。
山戸一樹「これは、その──見なかったことにしていただけませんか。私のことも、この店のことも、今夜あなたは何も知らなかった」
山戸一樹「そのほうがきっと、幸せで──」
御来優希「・・・っ、はぁ、はぁっ・・・」
山戸一樹「御来、くん──?」
御来優希「・・・っ、苦し・・・やだ、やめて・・・やめて、おとう、さん・・・」
山戸一樹「・・・っ、御来くん!」
俺は頭が真っ白になった。
遠くでマスターの声が聞こえて、
それがいつもの声だったことに
安心しながら、ゆっくり目を閉じる──。
〇ジャズバー
さらりと、髪が落ちた。
誰かにそっと触れられた気がして、
俺は意識を取り戻した。
そういえば、誰か──
特に大人の男の人に
触られるのが苦手だったと、
今さらながらに思い出す。
けれど、この人の指は細くて華奢で、
手のひらも柔らかくて、
女の人とも違うけれど
男の人って感じもしない──。
子どもみたいに頭を撫でられる感覚が
ただただ心地が良かった。
御来優希「・・・ん、んん・・・」
山戸一樹「──目が覚めましたか?」
御来優希「──っ、マスター! お、俺・・・」
山戸一樹「驚きました、急に倒れるので。もう大丈夫ですか? 本当はベッドに寝かせて差し上げたかったのですが──」
俺はそこでようやく思い出した。
そうだ、元々怪我をしていたのは
この人のほうで──。
御来優希「・・・っ大丈夫かって、それはこっちの台詞ですよ!マスターはもっと自分の心配もしてください!」
山戸一樹「・・・私は慣れていますから。ここまで激しかったのはいつぶりくらいか、もう覚えていませんが──」
御来優希「・・・これが前にもあったんですか!?というか、慣れるほど日常的なんですか!?」
山戸一樹「──ちょっと、落ち着いて・・・。何かあたたかいものでも用意しますから」
御来優希「──いや、いいです。今はいいですから。ここにいてください、お願いだから」
俺は立ち上がって背を向けかけた
マスターの袖を引いた。
たぶん泣きそうな顔をしていたと思う。
目を離すのが怖かった。
少しでも見えないところに行ったら、
彼がどこかへ消えてしまいそうで。
それはたぶん、
俺が昔の自分に対して
思っていたことと同じ──。
こんなふうに
心配してくれる誰かがいたら──。
俺のそのささやかな願望は叶わなかった。
けれど、だからこそ俺は
この人のことを放っておけなくなった。
山戸一樹「──わかりました」
しばらくの間、沈黙が続いた。
この人との静かな時間は
いつも心地がいいけれど。
今日だけは
それに身を任せるわけにはいかない。
話さなきゃいけないことが、
この人に聞いて欲しいことが、
たくさんあるから──。
御来優希「・・・俺、昔、虐待されていたんです」
山戸一樹「・・・はい」
御来優希「暴力も振るわれたけど、それよりショックだったのは──義理の父親からの、性的な虐待でした」
御来優希「裸にさせられて、鏡の前に立たされて。触ってくるんです、ずっと。──『女の子みたいだね』って」
御来優希「母親はそんな俺が気に食わなかった。男のくせに、子供のくせに、私の好きになった人を奪ったって」
御来優希「手を上げられました。母親にぶたれて、義父に触られて、昔からチビだった俺は抵抗もできず、逃げ出すこともできなかった」
御来優希「誰かに助けを求めたこともあったけど、そもそも家の中にはその二人しかいなかったし、無駄なんだって幼いながらに諦めて──」
御来優希「あとはただ心を失っていくだけ──。 児童養護施設に引き取られたのは、 それから数年後だったと思います」
御来優希「その頃には俺はひどい状態で。栄養失調に無数の痣、体格は同い年の子と比べようもなくて、その上、自我も失っていたそうです」
御来優希「名前を聞いても答えられない、学校に行ってないから言葉も満足に喋れない、よく考えたら助けを求めることさえできなかったんです」
御来優希「幸い、その施設に入ってからは両親のことを思い出すこともなく、徐々に自分を取り戻していきました」
御来優希「代わりにあの頃の一切合切を封印して今まで生きてきたんだと思います」
御来優希「でも、やっぱりどこかにトラウマが眠っていて、『女の子みたい』って言葉には大人になった今でも敏感に反応してしまうし──」
御来優希「記憶を封じ込めたままだから、どうしてそんなことさえ許せないんだろうって、今度は自己嫌悪に陥る」
御来優希「触られるのが嫌だから、男同士の肩を組むみたいなノリにもついていけないし、途中から通い出した学校にも馴染めなくて──」
御来優希「俺はずっとひとりぼっちだった」
御来優希「子供の頃から、今までずっと──」
御来優希「樋口さんにはよくしてもらってるけど、俺の精神状態に問題があるから、あの人の言動や行動も素直に受け入れられなかった」
御来優希「人として最低なんです、俺は──」
山戸一樹「・・・最低、なのではなくて──最底辺だっただけでしょう」
山戸一樹「──あなたは、何も悪くありませんよ」
そう言って、マスターはそっと
俺の手を握ってくれた。
ようやく全てを打ち明けられたのが、
この人でよかったと心底思う。
俺は思わず、マスターに抱きついていた。
子供の頃からずっと、
誰かにして欲しかったこと。
ただそばにいて欲しい、
ただ話を聞いて欲しい、
ただそっと、抱きしめて欲しい──。
マスターも戸惑いながら、
俺の背に手を回してくれた。
俺がマスターの肩に顔を埋めると、
優しく頭を撫でてくれた。
山戸一樹「──もう、大丈夫ですよ。きっとあなたにはこれから幸せなことが待っています」
山戸一樹「私にはそれを願うことしかできませんが──」
御来優希「嫌です」
山戸一樹「・・・はい?」
御来優希「だから、願うだけなんて嫌です。俺のそばにいてください。俺にはあなたが必要なんです」
山戸一樹「私じゃなくても、いつかあなたに相応しい人が──」
御来優希「あなたがいいんです。俺はあなたが──」
山戸一樹「・・・・・・っ!」
御来優希「な、なんですか、今の音──」
山戸一樹「──あの人が、来たんでしょう」
御来優希「あの、人?」
〇ジャズバー
謎の男「おい、一樹。何してる?」
山戸一樹「・・・はい、ただいま」
御来優希「・・・・・・」
俺はまた慌てて引き止めようとしたけれど、
マスターが静かに首を振る仕草が
有無を言わせない雰囲気で──。
俺は手を離してしまった。
山戸一樹「ここで待っててください。絶対に出てきてはいけませんよ」
そう小声で忠告するマスターの横顔は、
どこか闘いに向かう戦士のように
覚悟と、ある種の諦めに満ちていた。
今さら後悔しても遅かった。
追いかけた俺の目の前でドアは閉まり、
全ての音が世界から消えた。
〇シックなバー
謎の男「一樹、言ったよな? ここは俺がお前に与えた唯一の自由な場所だ。だが、何をしてもいいと言ったわけじゃない」
山戸一樹「・・・はい」
謎の男「客のいない日に男を連れ込んで、泊まらせて、挙げ句の果てに弱さにつけこんできたあいつに絆されたか?」
山戸一樹「──そんな、ことは・・・」
謎の男「いいか、お前は俺のものだ。この店以外で誰とも話すな。誰にも色目を使うな。約束できなければ、この店も取り上げてやるからな!」
山戸一樹「──はい、申し訳ありません。仰せのままに致しますので、どうか、これ以上は・・・」
謎の男「次はないぞ?」
山戸一樹「・・・わかっています」
謎の男「ふん。前にそう言ったことを忘れたか? もうその次というやつをお前は今ここで失ったんだ」
山戸一樹「──っ」
謎の男「俺がまた来るまでに店を片付けておけと言わなかったか? はっ、そりゃ無理だよな。お前はヤツと奥の部屋で戯れてたんだから」
山戸一樹「それは彼が──」
謎の男「彼ぇ? 俺に口ごたえするとはいい度胸だ。ま、ヤツももうおしまいだからな。いい頃合いだろう」
謎の男「もう二度とお前がこんな過ちを犯さないように、俺のもとで生活してもらう」
謎の男「はっ、15年も続けてきた店だったのに、失うのは一瞬だなぁ?」
謎の男「いいか、お前は俺を裏切ったんだからな。これから先、俺に何をされても文句を言うんじゃないぞ」
山戸一樹「・・・・・・はい、仰せのままに」
御来優希「ちょっと待てよ!」
謎の男「あ? なんだ遅かったな。なぁ、一樹。わかるだろ? こいつも所詮その程度なんだよ」
謎の男「お前が何を言われたか知らんが、どんなに綺麗事を言ってても、結局ビビって今まで出て来なかったんだろ?」
謎の男「おい、若造。一樹はお前ごときがどうこうできる男じゃないぞ。俺は一樹の全てを知ってる。全てを支配してる」
謎の男「何も知らないお前が、一樹にしてやれることは一つもない」
そうかもしれない。
俺は確かにマスターのことを
何も知らない。
でも、一つだけ。
こいつにはできなくて、
俺にはできることがある。
できるうちに入らないかもしれない。
でも、少なくとも俺は
この言葉に救われたから──。
この人の存在に、救われたから──。
他には何もできないけれど、
せめて、この人に届いて欲しい──。
御来優希「──あるよ、一つだけ」
謎の男「ほう、言ってみろ」
御来優希「──俺はこの人の・・・一樹さんの幸せを願ってる。あんたにはできないだろ」
隣で息を呑む気配がした。
謎の男「はははは、そりゃ傑作だ。確かに俺にはできねえな。俺は一樹を幸せにしてやる張本人だからよ」
謎の男「なあ、一樹? そうだろう?」
山戸一樹「──はい」
だめだ。
俺の想いはきっと、
伝わってるはずなのに。
この人が受け止めようとしないんじゃ、
いつまで経っても届かない──。
そうだ、この人も
俺と同じなんだ。
御来優希「──っ、どうしてですか!?」
俺はこの人みたいに
大人でも、器用でもない。
だから、うまく言えない。
でも──。
御来優希「どうしてこんなやつの言うことを聞くんだよ!そんな哀しそうな顔して、暗い声して、幸せ──?ふざけんな!」
山戸一樹「──私はマスターに恩がありますから。この店にいらしたお客様方が幸せなら、それだけで・・・」
御来優希「〜〜〜っ、じゃああなたの幸せは!?」
山戸一樹「・・・・・・?」
御来優希「あなたの幸せはどこに行っちゃったんですか!あいつに恩があったとしても、こんな関係はおかしいでしょ!?」
御来優希「あなたの本当の幸せを望めない、見ようともしない男に俺は負けない!絶対に連れて行かせたりなんかしない!」
御来優希「一樹さんはこれからもこの場所で店を続けるんです。色んな人の幸せを願いながら、自分の幸せも見つけるんです」
御来優希「一樹さんを幸せにするのはあんたじゃない!」
謎の男「まさか、お前が幸せにするとでも?」
御来優希「・・・っ、悪いかよ!」
謎の男「別に勝手にすればいいけどよ、ま、無理だと思うぜ?」
御来優希「──そんなこと、決めつけるなよ!」
謎の男「いやぁ、俺の主観じゃなくて世間一般的に見てね?こういうことする君が、誰かを幸せにする?馬鹿げてない?」
そいつが徐に取り出したのは、
スマートフォン。
そこには映像が映し出されていて──。
〇レストランの個室
御来優希「──俺は女じゃない!」
その映像は紛れもなく
数日前、男性モデルに
食事に誘われた時のもので──。
無断で撮影されていたことも驚きだが、
本当の衝撃はこの後の展開だった。
急に画面が切り替わり、
俺の席を映していたカメラが
モデルのほうを向いた。
画面外からグラスが飛んできて、
モデルの後ろの壁にあたって砕けた。
その破片がモデルの顔を傷つけた、
ように見えた──。
どうやらモデル自身が
拡散しているらしく、
運悪く人気であることも作用して、
SNS上ではモデル側の
声が大多数だった。
どう考えても合成だと
言い切れるのはもちろん俺だけで。
カメラワークが不自然だとか、
そのほかのちょっとした
違いには誰も気づかない。
〇シックなバー
目の前がまた暗くなる気がした。
謎の男「わかったか?顔出しまでされて残念だったな。ともかく、こういうことだから。世間でもお前はもう除け者なんだよ」
謎の男「そんなやつに、一樹を幸せにできるのか? はっ、笑わせてくれる!」
御来優希「・・・・・・っ」
山戸一樹「──ちょっと待ってください。その男性モデル、以前あなたのところで見かけたことがあります」
山戸一樹「・・・あなたが画策したのでは?」
山戸一樹「御来くんを排除したいがばかりに、ずいぶん急いた行動をとりましたね。すぐに嘘だとわかりますよ?」
謎の男「よく言うよ、もうかれこれ半日経ってるんだぞ。このネット社会の中、ここまで反対要素が出なかったらもう安泰──」
山戸一樹「今のは失言ですね。認めたも同然です」
謎の男「ちっ、俺がやらせたからってなんだ!訴えるか、俺を!」
山戸一樹「──残念です。あの頃の、私がこの店にやってきた頃のあなたとはもう別人ですね」
山戸一樹「あの頃の私はお金もなく、食う寝るに困って、男たちのもとを渡り歩いていました」
山戸一樹「時には体を差し出して、とにかく生きることに必死だった」
山戸一樹「でも、どうして生きているのか分からなくなって来た頃、この店でマスターをしていたあなたに拾われたんです」
山戸一樹「あなたには恩があります。お酒のこと、お店のこと、お客様のこと──あなたに教わりました。決して忘れたことはありません」
山戸一樹「お客様を幸せにしたい──そう言って笑っていたあなただから、私はこの店を15年続けてきたんです」
山戸一樹「私生活も自分の恋愛も犠牲にして来たあなたに、少しでも幸せになって欲しくて──」
山戸一樹「私がいることであなたがそう思えるなら、それでいいとずっと思って来ました」
山戸一樹「あなたに拾われなければ、私はきっとあの日のまま、たった一人で死んでいたでしょう」
山戸一樹「──ですから、御来くん。どんなに間違っていたとしても、私はこの人から離れようと考えたことはないんですよ」
山戸一樹「今でも、ずっと──」
御来優希「それって・・・」
謎の男「──っ、そうだ、お前はそれでいい」
山戸一樹「御来くんの気持ちは嬉しいです。でも、それはやっぱり私以外の、本当に好きだと、愛していると思える人に伝えてください」
山戸一樹「私はいつでも、あなたの幸せを願っていますから──」
山戸一樹「──はい、バー『YAMATO』です」
樋口雅臣「お、マスター!無事だったんだな、よかったよかった」
山戸一樹「樋口くんですか、どうしたんです?こんな夜中に──」
樋口雅臣「あ〜、御来いるだろ?」
山戸一樹「ええ、代わりましょうか?」
樋口雅臣「いや、あんたにも聞いて欲しいからさ。スピーカーにしてくんない?」
山戸一樹「わかりました」
樋口雅臣「よう、御来!マスターのこと、サンキューな。こっちも一段落ついたところでさ。お前に、朗報だ」
御来優希「朗報?」
樋口雅臣「そ。さすがにもうスマホ見たか?お前が話題になってる動画な、本物が出回ってるぞ」
御来優希「──本物?」
樋口雅臣「あ〜本物っつうか。本当の一部始終な。あのグラスをぶつけたシーンは後から付け足した偽物ってことが証明されたから」
樋口雅臣「心配すんな。あのモデルも今や非難轟々よ。いやぁ〜いるとありがたいね、ネットに詳しいお友達♪」
御来優希「・・・ひ、樋口さんが頼んでくれたんですか?」
樋口雅臣「ん? あぁまぁな〜俺は何もしてないけど」
御来優希「あ、ありがとうございます・・・!」
樋口雅臣「いいっていいって」
御来優希「あ、でも、トラブルって確かもう一つあったんじゃ・・・?」
樋口雅臣「あぁ、コンテストで使う衣装の件な。そっちも解決、というか──これからお前に解決してもらいたいんだけどな?」
御来優希「はい?」
樋口雅臣「おっと、そうだ。そういえば、その店の前のマスター、知ってるか?」
樋口雅臣「あんたは知ってるよな、山戸さん」
山戸一樹「ええ、ここにいらっしゃいますよ」
樋口雅臣「なんと!そりゃ好都合♪」
山戸一樹「何かあったのですか?」
樋口雅臣「うん。今さっき例のモデルが脅されたってSNSで言い出したら、私も口止めされてたとか、俺も金払わされたことがあるとか──」
樋口雅臣「我も我ものてんやわんやよ。その店、芸能人もよく来るみたいだし、そいつらの弱み握っていいように利用してたらしいぞ」
樋口雅臣「ずいぶん悪どいことやって来たんだなぁ?あんたの顔覚えてるけど、優しそうな、無害そうな雰囲気だよな?」
樋口雅臣「みんなそれに騙される。あんたがマスター辞めてから立ち上げた会社も、その弱みを握った奴らの金で保ってるらしいじゃん」
樋口雅臣「中身は火の車なんだって?はは、もうここまで来たら終わりだよ。もうすぐ警察が行くんじゃないの?」
樋口雅臣「おい、御来!絶対逃すなよ?お前、顔に似合わず力あるんだから」
御来優希「──はい!」
山戸一樹「・・・樋口さん、わざわざありがとうございます。私もようやく目が覚めました」
山戸一樹「私が願っていた幸せは、この人による犠牲の上に成り立っていたんですね」
樋口雅臣「けど、あんたは何も知らなかっただろ?間違ったことは許せない人だもんな。だから、あんたには今までずっと話さなかった」
山戸一樹「──いえ、私は間違っていました。間接的にとは言え、このお店を愛してくれた方々を不幸にしてしまいましたから」
山戸一樹「お客様の幸せを願っている、などと偉そうなことは言えません」
御来優希「・・・俺は、少なくとも幸せですよ。この店に、一樹さんに、出会うことができて」
樋口雅臣「俺もそう思うよ。あんたと話すと、不思議と気持ちが落ち着くんだよな」
御来優希「忘れないでください。幸せを願うだけじゃなく、一樹さんには誰かを幸せにすることができるんです」
樋口雅臣「そうそう。俺も御来もあんたに助けられた一人なんだから、そんなん気にすることないよ」
御来優希「──この店、また続けてくれますよね?あの子たちやここに来るお客さんたちの居場所、なくなると困りますよきっと」
山戸一樹「・・・ふふ、ありがとうございます」
〇コンサート会場
山戸一樹「へえ、こんな雰囲気なんですね。パリコレって──」
樋口雅臣「いやいや、パリコレじゃないから。っていうか、山戸さんってこういうの疎い?」
山戸一樹「ええ、初めてです。あの街から出ることもしばらくぶりですし」
樋口雅臣「あ、あぁそうね。ま、これから何度でも来てよ。あいつにも会えるし──」
山戸一樹「そうですね」
樋口雅臣「お、始まるぞ」
御来優希「・・・・・・」
山戸一樹「──美しいですね」
樋口雅臣「だろ?前のマスターの差し金で衣装が破かれてた時はどうなるかと思ったけど、今思えばチャンスだったな」
山戸一樹「樋口くんは最初から、御来くんをモデルにしようと考えてましたからね」
樋口雅臣「・・・前にも思ったけど、それ、はっきり言ったことあったっけ?」
山戸一樹「いいえ。ですが、なんとなく──」
樋口雅臣「はは、敵わないねえあんたには。ま、その通りだよ。俺が目指すのは、ユニセックスの普及だからな」
山戸一樹「ゆにせっくす?」
樋口雅臣「あーなんだ、簡単に言うと男女問わず着られる服だな。普及とは言うけど、今となっちゃそんな必要ないほど広まって来てはいる」
山戸一樹「では、もっと広めたい、と?」
樋口雅臣「いやぁ、そうじゃなくて。男は特にだけど、体格的にも気持ち的にもユニセックスは人を選ぶだろ?」
樋口雅臣「──ま、あんたはそういうのも着こなしちまいそうだから、モデルに誘ったんだけど」
山戸一樹「私はそういう柄ではありませんから」
樋口雅臣「はいはい、もういいですよ。御来が引き受けてくれたしな」
山戸一樹「ユニセックスを着られるのは、男性の中でも中性的な容姿の、御来くんのような方だけだと?」
樋口雅臣「今はな。けど、そうじゃないって証明したいんだよ」
樋口雅臣「背が低い女の子でも、ガタイのいい男でも着られる服──それが本当のユニセックスだろ?」
樋口雅臣「もちろんサイズに違いはあるけどな。デザインが一緒で誰にでも着られる服」
樋口雅臣「俺はスタイリストの端くれとして、そういう思いを大事にしたいわけ。で、その筆頭はやっぱり着物だと思うんだよな」
山戸一樹「ええ、そうですね。男女兼用と言っても過言ではないでしょうね」
樋口雅臣「残念なのが、やっぱり色合いとか形とか、細かいところで男女別なのが多いところだな」
山戸一樹「昔はなかったでしょうからね、そういう考え方が──」
樋口雅臣「で、話は戻るけど。衣装が破かれてた時、直すには布が足りなくなってな」
樋口雅臣「本当は色んな体格のモデルがいるんだけど、御来ぐらいの体格の着物が一着しかできなくなっちまった」
樋口雅臣「元々、御来には標準サイズのユニセックスモデルとして出て欲しかったんだ」
樋口雅臣「御来の容姿なら、男も女もこの服を着た自分の姿を想像しやすいだろ?」
山戸一樹「ええ、確かに。樋口くんが『お前にしかできないことがある』って言っていたのはこのことだったんですね」
樋口雅臣「そうそう。誰にでもできることじゃない」
樋口雅臣「ま、御来はこの衣装見た時、あからさまにホッとしてたけどな。どんな女の子みたいな服を着せられんじゃないかって」
山戸一樹「ふふ」
樋口雅臣「ま、それは前に俺が女物をいっぱい着せたことに起因してんだけどさ」
山戸一樹「樋口くんのことですから、理由はあったのでしょう?」
樋口雅臣「あぁ、まぁな。ユニセックスとはいえ、やっぱり男女どっちかに寄ってるデザインって多くてさ」
樋口雅臣「女性服の色んな柄物着せて、男の体格でもデザインが崩れないかとか、この装飾は難しいなとか──」
山戸一樹「どうだったんです、結果は」
樋口雅臣「ま、やっぱり細かいこと言うと大判の花柄くらいだったな、気にせず着られそうなのは」
山戸一樹「ああ、だから──」
樋口雅臣「そうそう。今回の着物も花柄なのはそういうこと」
山戸一樹「いいですね。色合いもシックで、竜胆がよく映えます」
樋口雅臣「よくわかったな、竜胆って花だって」
山戸一樹「──マスターに教えてもらったんですよ」
樋口雅臣「──そうか。忘れたことないんだもんな」
山戸一樹「ええ。樋口くん、知ってますか?」
樋口雅臣「何を?」
山戸一樹「──竜胆の花言葉」
樋口雅臣「もちろん。あんたみたいな──いや、山戸さんみたいだと思ってたけど、今は山戸さんと御来二人によく似合う花だと思うよ」
〇シックなバー
御来優希「このバーの名前、一樹さんの苗字から来てたんですね」
山戸一樹「ええ、そうですよ。よく下の名前と間違われます」
御来優希「そりゃローマ字にしたら普通そうですって」
山戸一樹「それで、今日はどうしたんですか?」
御来優希「どうしたんですか、って来ちゃいけないですか?」
山戸一樹「今日は定休日ですよ」
御来優希「だから来たんです!一樹さんと二人きりで会えるから」
山戸一樹「それはそれは──」
御来優希「──む、ちょっと馬鹿にしました?」
山戸一樹「してませんよ」
山戸一樹「幸せだな、と思っただけです」
御来優希「それは・・・俺もです」
御来優希「あ、そうだ。これ、あげます」
山戸一樹「なんですか?」
御来優希「お守りですよ」
山戸一樹「この間、御来くんがモデルとして着た着物の柄と同じですね──竜胆の花」
御来優希「はい。一樹さんに似合うなぁと思って。破れた布の破片で作りました。あ、縁起悪いですよね?」
山戸一樹「いえいえ、そんなことは。むしろ、逆ですよ」
御来優希「逆?」
山戸一樹「ええ。私の破れた心をこうしてまたちゃんと繋ぎ合わせてくれたのも、御来くんですから」
御来優希「・・・・・・」
山戸一樹「大事にしますね、ありがとう御来くん」
御来優希「──はい」
山戸一樹「ところで、今度のモデルのお仕事は決まったんですか?」
御来優希「ああ、それなんですけど。俺、やっぱりモデルはあの一回きりにしました」
山戸一樹「それはどうして?辛いことを思い出してしまいましたか?」
御来優希「いや、そうじゃないんです。樋口さんにも言いましたけど、俺、自分の容姿が気にならなくなりましたから」
山戸一樹「ふふ。それはよかった。あの時、私を守ってくれた御来くんはとてもかっこよかったですよ」
御来優希「一樹さんがそう言ってくれるから、ちょっとだけ自信持てたんです。やっぱり俺には一樹さんがいないと──」
山戸一樹「はいはい」
御来優希「あ、またそうやって〜自分だけ大人ぶらないでくださいよ」
山戸一樹「大人ですから」
御来優希「──俺も、早く大人になりたかった」
山戸一樹「・・・はい」
御来優希「大人になれば『女の子みたい』って言われても我慢できるって──」
御来優希「でも、できるだけ言われたくないから、露出のない体の線が出ない服を着るようになって」
御来優希「でもそれって今度は子供っぽく見えるというか、俺の嫌な思い出しかない時代のことがその度に頭を掠めるから──」
御来優希「だから、もっと男らしくて大人っぽくて、でも身体のラインがわからないような、そういう服に出会いたくてスタイリストを目指した」
御来優希「スタイリストなら男物も女物も色んな体格の人で試せるし、自分は着なくてもいいから、いいなって」
山戸一樹「──だから、樋口くんが君に惹かれたんですね。君のそういう考え方が、樋口くんの目指すユニセックスと共鳴したから」
御来優希「・・・今思えば、そうかもしれないですね。あの人は純粋に俺のためを思ってくれていたし、あの人のおかげで吹っ切れた気がするし」
山戸一樹「それ、彼に言ってあげたらどうですか?きっと喜びますよ」
御来優希「・・・そのうち、機会があったら──」
山戸一樹「ふふ。樋口くんの反応が楽しみですね」
御来優希「そうだ、樋口さんと言えば──」
御来優希「竜胆の花言葉って何ですか?」
山戸一樹「えっ、知っているのではないんですか?」
御来優希「俺はただ似合うなって思っただけで。花の名前も知らなかったんです。それ作ってる時に樋口さんが『マスターに聞けばわかる』って」
山戸一樹「──そうですねぇ、宿題にしましょうか。自分で調べてみてください」
御来優希「え〜意地悪だなぁ。あ、じゃあここで調べます。一樹さんのスマホ貸して?」
山戸一樹「自分のを使ったらいいじゃないですか」
御来優希「俺の充電切れちゃった」
山戸一樹「私のところに頻繁に連絡してくるからでしょう。仕事の連絡に気づかなかったらどうするんです」
御来優希「その時は樋口さんがここに電話くれますから」
山戸一樹「──結局、私頼りじゃないですか」
御来優希「いいじゃないですか、大人なんだから♪」
竜胆の花言葉。
それは──。
長編でしたが、流れるようなセリフ展開で心の機微を描いていて、読み耽ってしまいました。三者三様に抱えていた荷物を互いに少しずつ分け合って穏やかに笑い合えるようになったのがよかった。これからも、まさに「竜胆の花言葉」の意味のように互いを支え合っていくんだろうなあ、と思います。
デリケートで重いテーマですが、真摯に書かれた小説だと思いました。マスターの言葉は読んでる私にも響いてきました。主人公が辛い過去に向き合って前に進めたこと、ホッとしました。そして何よりもマスターが抜け出せたことがよかったです。実際に経験しなければ分からないことはあるし、だからこそ同じように苦しむ人には届く言葉を発せられるのだと思います。