蝶が舞うように

秋田 夜美 (akita yomi)

第3話 右と上と…(脚本)

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〇玄関内
冬花「よいしょ、っと・・・」
  昨晩も歌と再会できなかった私は、コートに袖を通し、スニーカーを突っ掛ける。
  "コンコン"とつま先を叩き、踵を入れてから半歩下がると、
  浅い玄関の段差に腰を掛けた。
冬花「うまくいくかな・・・」
冬花「変な人って思われないといいけど・・・」
  隣の住人が歌の主なのか確認すると決めたものの、
  いざ実行となると不安が高まってきていた。
冬花「はぁぁ。緊張する・・・」
  昔から私はよく失敗をした。
  人前に出れば頭が真っ白になってしまうし、
  大事な場面では手や足が震えてしまう。
  身体が言うことを聞かなくなってしまうのだ。
冬花「やっぱりやめようかな・・・」
冬花「おとなしくお風呂で聴こえてくるのを待っていれば・・・」
  過去を回顧した私は、弱気になった。
  何もせずに諦めれば、楽になる。私の中の弱い自分がそう耳元で囁いていた。
  その声になびき、やっぱりやめようと靴に手をかけた時、
  脳裏にあの歌を聴いた幸福感が甦ってきた。
  ここでやめたら、きっとあの歌の主とは会えない。
  どんな人か知ることすらできない。
  それに気付いた私は「本当によいのか」と、もう一度自分自身に問うた。
冬花(今こうして、部屋の隅で小さくなっていないのは、あの歌があったから・・・)
  その想いに至り、ピタリと止まっていた指先は思考から解放され、脱ぎかけた靴を離した。
冬花「・・・やっぱり知りたい」
冬花「諦めたくない」
冬花「会ってお礼を言いたい!」
冬花「あなたの歌は素敵だねって伝えたい!」
  その思いが、弱い私を引き留めた。
  私の心は今、しっかりと固まった。
冬花「大丈夫。大したことをするわけじゃない」
  そう自分に言い聞かせると、
  胸の前でキュッとこぶしをつくって、深呼吸をする。
冬花「すぅぅぅー、ふぅぅーー・・・」

〇玄関内
  10分ぐらいだろうか、玄関で緊張をやり過ごしていると、ドアの向こうから踵を鳴らす音が近づいてきた。
冬花(来たッッ!)
  ヤモリのようにドアに張り付くと、覗き穴から廊下の様子を探る。
「コツ、コツ、コツ」
  私は急いで腕時計を確認する。
冬花(昨日と同じ時間・・・。多分、隣の人!)
  予想通り足音は私の部屋を通り過ぎることなく止まった。
  緊張のパラメーターがぐんぐん上昇し、額が汗ばむのを感じた。
  それを拭くこともなく、私はドアノブを静かにつかみ、タイミングを待つ。
  そして・・・
  カギが刺さる音を聞こえた瞬間、
  私は勢いよく扉を開いた。

〇マンションの共用廊下
  玄関を出るとそこに立っていたのは、
  若いスーツ姿の男性だった。
冬花「あっ・・・!」
  当てが外れた私は驚きのあまり、フリーズする。
  そう、私の作戦とは隣の住人が帰ってきた瞬間に故意に鉢合わせる、というものだった。
  とても単純だが、本心を偽ることが苦手な私にとっては難しい課題だったのだ。
  男性も驚いた様子を見せたものの、私ほどではなくすぐに立ち直った。
隣の住人「こんばんは・・・」
  静かな声でそれだけ言うと彼は小さく頭を下げた。
  どうやら怪しまれていない様子だった。
冬花「こ、こここんばんは・・・」
  ようやく私がそれだけ言うと、彼は視線を前に戻して部屋へ入っていった。
冬花(違った・・・)
  私はしばらくその場で動けずにいたが、
  留まるのは不自然だと思い直し、エレベーターに向かって歩き始めた。
  そして、その歩調は自然と加速していった。
  スーツ姿の男性がそこに立っていた時、がっかりしたし、あの歌の主に会えなくて残念な気持ちになった。
  だけど、どうしてだろう。不思議な高揚感が湧いてくるのであった。
冬花(できた・・・)
冬花(私が思いついた方法で、私が知りたいこと、見つけられたっ!)
  気持ちが昂るのを抑えきれず、私は脇にある階段を一気に駆け下りていった。
  エントランスを出ると、興奮する身体を冬の冷たい空気が私を包み、いつになく空気が澄んでいるように感じた。
  そう感じたのはおそらく、「しばらくぶりの外出だから」という理由ではないはずだ。
  私はニヤつく頬を制しながら、コンビニまでの道のりを歩く必要があったのである。

〇マンションのオートロック
  ビニールを提げて帰って来ると、広告があふれかえっている郵便受けが目に入った。
  なんと、私の部屋のものだった。
  良い気分に水を差された私は、盛大にため息をつく。
冬花「はぁー・・・」
  散乱した広告を拾い集め、郵便受けの中身と一緒に備え付けのごみ箱に投げ入れる。
冬花「広告って意味あるのかな・・・」
  ぼやきながら郵便受けを閉じると、新たな気付きがあった。
  ひとつ上の郵便受けにびっしりとビニールテープが張ってあるのだ。
  周りを見渡すと他の部屋の郵便受けにも所々ビニールテープが張ってある。
  私は納得した。
冬花「私の部屋の上には誰も住んでないんだ」
  確かに今思い起こせば、上の部屋から物音が聞こえたことがなかった。
  また一つ情報を得た私は頬が緩むのを感じながら、自室へと向かった。
冬花(次は反対隣の部屋を確認してみよ!)
  そんなことを考えながら。
  いつの間にか私は、随分と楽しそうだった。

次のエピソード:第4話 左とずっと下

コメント

  • 冬花さんの挙動が細密に描かれているので、緊張や不安といった感情もダイレクトに伝わってきて、読んでいてドキドキしました。感情や行動動機が「自己否定」から「歌の主」にシフトして、彼女からも活力が感じられますね。

  • 靴を履く描写、細かいですね。映像の解像度が高いといいますか、情景想像する習慣のある読者には楽しい文章です。
    主人公の心が少しずつ立ち上がってくるのもいいですね。

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