第6話 母親(脚本)
〇青(ダーク)
飢渇至上主義。通称ハングリズム。
生きるとは食べる事であり、食べるという事は他の生命を殺める行為に他ならない。
つまり生きるとは殺す事であり、即ち、人は罪深く、その業を断ち切る為に一切の飲食を禁ずる、という主義、及び傾向。
一昔前に流行った(?)ヴィーガンのパワーアップ版。或いは成れの果て。
マスター・マザーをその頂点とするが、体系化はされておらず、宗教というよりは規範の様なものに近い。
それでも現代の食糧事情にマッチした思想の影響は凄まじく、
マスター・マザー「止められないのは、あなたの心が弱いせいではありません」
マスター・マザー「治療すれば食欲は止められます」
などといった耳障りの良い宣伝文句で、あっという間に世界中に浸透した。
断食といえば宗教の定番だが、それがどうして修行になるのか僕には理解出来ない。
兎に角、連中にとって物を口にするのは罪になるらしい。
敬虔な信者ともなると、食餌はおろか水さえも控えるのだから筋金入りだ。
目下、僕の悩みは、実の母親がこの思想にどっぷりハマっている事だ。
〇病室の前
アラムスタンから連絡を受け、帰国すると、そのまま病院へ向かった。
必要な資料は揃えておいたから、査察は問題ないだろう。
すれ違う人は皆等しくマネキンの様に痩せこけている。
これでよく健康を維持しているな、と思うが病院なのでどこかしらは害しているのだろう。
満足な食事が出来ないのだから無理もない。
さぞ病院は儲かっているのかと思いきや、そうでもないらしい。
医療は進歩したが、その分コストは年々下がり、国民負担は最低限。
政府からの補助金だけが病院の生命線だった。
何より、頑張って治療する、という風潮そのものがなくなっていた。
完治したところで、その後の人生に喜びがないのだ。
美味しい物が食べられない、というのはそれ程のストレスだ。
助かるであろう症例でも、長引くくらいなら安楽死させるのが当たり前になっていた。(法規制もあっさり緩和された)
エンゲル係数と比例する様に生命の値段が安くなってきている。
セール実施中。今なら生命が大変お買い得です。
〇綺麗な病室
アメタ「母の容態は?」
医師「既に意識はありません。とても安らかに眠っておられます」
医師「お見送りの準備をしておいて下さい」
安らか? 眠る? お見送り?
とても丁寧な口調で、思わずポケットの銃に手が伸びそうになった。
それ以上、詳しい事は言わなかったし、聞かなかった。今どき珍しい事ではない。
アメタ「・・・・・・」
母の身体には幾つものコードやチューブが伸びていて、まるで小人の国に迷い込んだガリバーの様にベッドに磔にされていた。
或いはミイラだろうか。骨と皮だけになるまで極限まで痩せ細っていて屍者そのものに見える。
モニターの表示だけが、科学的に生きていると証明しているに過ぎない。
実の母親に向かってこんな事を言うのも何だが、酷く不気味だった。
あの胸に抱かれていたのだと思うと、ぞっとする。
あれの母乳を飲んでいたのだと思うと、吐き気がする。
あんなものから産まれたのだと思うと、全身を掻きむしりたくなる。
アメタ「延命措置は?」
医学が進歩する度に、生と死の境界線はどんどん曖昧になる。
死の定義は難しいが、生の定義はもっと難しい。
意識がなくなっても、心臓が止まっても、各々の細胞が直ちに代謝を停止する訳ではない。
髪や爪は伸び続けるし、何だったら排泄だってする。
僕らの身体は結構いい加減に出来ている。
医師「栄養さえ摂って頂ければ可能でしょう」
医師「しかしお母様は・・・・・・」
そう。敬虔な、と言えば聞こえは良いが、要するに狂信者だ。
飢渇至上原理主義者。
幼い頃の僕にさえ、その教義を実践させていたくらいだ。
食事が如何におぞましい行為であるかを説き、食欲が如何に卑しい欲望であるのかを熱心に教え込んだ。
時には断食させる事さえあった。成長著しい子供に食事を与えないなんて、虐待以外の何ものでもないだろう。
母さん。お陰であんたの息子は、人様の食糧を奪い取り、その一方で隠れて美味しい物を食べる立派な大人に成長したよ。
医師「失礼ですが、お母様は遺書などを用意されていたでしょうか?」
アメタ「わかりません。母とはずっと離れていたので」
医師「ではご親類にその旨を伝えていた、という事は?」
アメタ「それもちょっと・・・・・・」
親類どころか、僕は母以外の肉親を知らない。
多くの子供がそうである様に、僕は母がバンクで購入した、顔も名前も知らない男の精子で妊娠した子供だ。
医師「では今後をどうするのかは、貴方が決めて頂くしかありません」
つまり、このまま延命を続けるのか、
それとも安楽死させるのか、という事だ。
重すぎる決断だ。
碌でもない母親だが、それでもやっぱり僕にとっては最愛の母でしかない。
腹を痛めて産んでくれたのだろうし、彼女なりに愛してくれたのだろう。
唯一無二の存在であり、僕の半分はこの人で出来ている。
散々恨みもしたが、同じくらい愛してもいる。
子供にとって母親とは神にも等しい存在だ。
どんな扱いを受けようが無条件で信じてしまう。
例え虐待されていたとしても、拒絶するのは簡単じゃない。
ましてその生命を絶つ決断をしろだなんて。
これは何かの罰か?
〇渋谷の雑踏
街は静かだった。
人はいる。活動もしている。しかし活気はまるでない。
言うなれば街全体が死んでいる。空気さえもが澱の様に沈殿している。
帰って来た、という感じだ。
街頭にはマスター・マザーのポスターや映像。
もう一人の母。その優しい眼差しで、いつも僕らを見守ってくれている。
少し考えさせて下さい。医者にはそれだけ伝えて、僕は病院を後にした。
泊まる当てなんてないからホテルを探さなきゃいけないが、とてもそんな気分にはなれなかった。
人工物だらけの臭いのない街で、ぼんやり歩きながら僕は想いを巡らせていた。
アメタ(そう言えば腹減ったな・・・・・・)
母さん。これがあんたの幸せなのか?
四六時中食べたい欲求を抑え込んで、栄養摂取を拒んで、挙句の果てに倒れて、それでもあんたは幸せなのかよ?
人はそんなに罪深い生き物か? 死ななきゃいけない悪い事をしてきたのか? 腹が鳴るとそんなに恥ずかしいか?
僕にはわからない。
大人になってから気づいた。
母は弱い人だったのだ、と。弱いから飢渇主義に縋るしかなかった。
信じている間は空腹を忘れられたから。盲信していれば死の恐怖も和らいだから。
政府から供給される生活に多くの人が安心感を覚えていたのに対し、母にはそれがおぞましいものにしか映らなかった。
生きるには食べなきゃいけないが、食べるのは恐ろしい。結構なジレンマだっただろう。
死という形でそれらから解放されるのだから、今が一番幸せという事なのだろうか。
まったく。中東ではあんなに簡単に人を殺しておいて、老い先短い老人を一人安楽死させるかどうかでこんなに悩むなんて。
他人の死には幾らでも鈍感になれるのに、近しい人間の死がこれ程まで受け入れ難いなんて。勝手なものだ。
選択の余地など始めからない。
今回延命させたところで、母はやっぱり回復しないだろう。同じ事が繰り返されるならここで終わらせるべきだ。
ただ決断するのは辛い。わかっちゃいるが
心の整理が必要だった。
アメタ(そういや家賃とかどうなっているんだろう。相続する財産とかあるのか?)
アメタ(葬式って幾ら位掛かるんだろう・・・・・・)
発見。人は近親者が亡くなりそうになると、思ったよりも打算的になる。
しかもカネの事ばっかりだ。そんなもんかも知れないが。
〇狭い裏通り
アメタ「!?」
アメタ(尾行されてる・・・・・・ ?)
アメタくん、過去編では子供兵士を手段として用いるサバサバっぷりだったので人工授精の母親を一刀両断するかと思ったら少しは迷うんですね。しかし母親にこんなに嫌悪感を示すとは…。
食欲と性欲のバランスが崩壊しているからか、他の価値観が歪んでいても受け入れやすく出来てますね。
本筋ではないですが彼以外の人間が命や親子関係をどう捉えるかも気になるところです。
母親に対する葛藤がリアルでした。
信じこんで聞く耳をもたなくなった親族……つらいですね。わたしもカルトと言われる宗教の二世で抜け出した立場です。アメタの境遇が少し重なりました。(関係は良好ですが)
マザーの提唱は苛烈ですね。案外、本人は裏でおいしいもの食べてそう……
命のこと真剣に考えてくれてる姿に、優しいなと思い、同時にこんなに悩ませたくないな、と思いました。
私自身は息子に、回復の見込みがない、あるいは限度を超えた金額が必要になるなら躊躇なく安楽死にしてくれと伝えています(^^*