読切(脚本)
〇渋谷駅前
渋谷駅前の片隅で、彼はいつもギター片手に歌っていた。
木曜の塾を終えての帰り道、駅に向かう途中で、いつも見かける光景だ。
彼は演奏をひとつ終えるごとに、足もとの缶コーヒーを手にし、口に運んだ。
演奏の途中で、いつものとおり、彼の足もとにある小さな箱に、100円硬貨を入れた。
箱の中は、50円や10円玉などの硬貨ばかり。
といっても、今の私には、この100円を出すのが精一杯。
それでも、彼の演奏を聴くたび必ず入れる
あの100円玉は、私と彼を結びつける、大切な存在だった。
そんなある日のこと。
〇SHIBUYA109
いつもの塾の帰り道。
バッグの中に財布がないことに気づいた。
おかしいな・・・・・・
財布の中には、塾の入室カードも入れていたから、それまではあったはずだ。
塾を出てから、どこかでなくしたのかも・・・・・・
来た道、寄った店をあちこち探し回った。
でも、どこにも見つからなかった。
こんな大きな街で、なくしたら見つかるはずないかも・・・・・・
不安と絶望感が私を襲う。
〇渋谷のスクランブル交差点
渋谷の街を、あてもなくうろうろ。
この雑踏の中で、私の小さな財布なんて、見つかるはずがない・・・・・・
もう誰かに拾われて、捨てられたのかも・・・・・・
目から涙がこぼれる。
私は泣きながら歩いていた。
〇渋谷駅前
知らないうちに、駅前まで来ていた。
いつもの場所で、ギター片手に歌っている彼の姿が。
彼のまわりには、数人の若い女性たちが立っていた。
けれど、数分も経たないうちに、駅のほうへと姿を消していった。
私は、少し離れたところの石のベンチに腰かけていた。
彼の演奏が耳に入ってこない。
ただその姿をじっと見守るだけ。
どれほどの時間が経っただろう。
〇渋谷駅前
人通りが、だんだん少なくなっていく。
心細さだけがつのっていく。
スマホはあるので、電車に乗って帰ろうと思えば、帰れた。
けれど、財布をなくしたまま、この場を離れる気には、どうしてもなれなかった。
いや、正直に言うと、家に帰る勇気がなかった。
〇時計
時間が夜の10時を過ぎたとき
〇渋谷駅前
彼は演奏を終えると、ギターをケースに入れ、後片付けを始めた。
私は、その場にじっと座ったまま、彼の様子をながめていた。
彼がゆっくりとこちらに近づいてくる。
「最後まで聴いてくれて、ありがとう」
「あっ、いえ・・・・・・」
「こんな遅い時間まで、どうしたの? あっ、ごめん。余計なこと聞いちゃったかな」
私は、思わず顔をふせた。
涙顔の私を見て、彼はもう一度尋ねた。
私は彼に財布をなくしてしまったことを打ち明けた。
すると突然、彼はその場から去ってしまった。
仕方がない・・・・・・
こんなことに巻き込まれたくない気持ちもわかる。
しばらくすると、彼は戻ってきた。
彼の手には缶コーヒーが二つ。
一つを私に差し出した。
両手で包み込む。
あったかい・・・・・・
「そこに交番があるから」と、彼は後ろのほうを指さした。
「ちょっと、こわくて・・・・・・」
「じゃあ、一緒についていってあげるよ」
「でも、あそこのおまわりさんに、昨日怒られたところなんだ。正直言うと、僕もちょっとこわくてね」
とにかく二人で交番に向かうことにした。
〇交番の中
交番の中に入ると、若いおまわりさんが出てきた。
おまわりさんは、彼の顔を見るなり、「なんだ、またおまえか!」と、声を張り上げた。
彼はすっかり怖じ気づいてしまい、そのまま黙り込んでしまった。
私は、財布をなくしたことを打ち明けた。
おまわりさんは、財布の特徴をいろいろ尋ねてから、奥の部屋へと姿を消した。
しばらくすると、おまわりさんが姿を見せ、目の前に財布を三つ置いた。
「このうちのどれかかな?」
「これです! この財布です!」と、私は叫んだ。
一通りの手続きを済ませ、交番を出た。
〇渋谷駅前
「とにかく見つかってよかったね」
「はい、おかげさまで。ありがとうございます」
「こんな遅い時間になっちゃったけど、一人で帰れる?」
「はい、大丈夫です。これさえ見つかれば・・・・・・」
「もしよかったら」と、彼は小さな紙のようなものを私に差し出した。
それは、何かのチケットのようだった。
「小さなライブハウスだけど、ちょっとしたミニコンサートをやるんだ。よかったらだけど」と、彼は恥ずかしそうに言った。
私の左手は、缶コーヒーを握りしめたまま。空いている右手でそれを受け取った。
「夕方とはいえ、中学生にはやっぱり無理かな」
「ちゃんとお母さんに話してから行きます。大丈夫です。私、絶対に行きます」
「何なら友達を誘って来てもらってもいいよ。三人までそのチケットで入れるから」
「じゃあ、また今度ね」と彼は言うと、駅の反対側のほうへと去っていった。
缶コーヒーを持つ左手は、かなり冷たくなっていた。
でも、チケットを持つ右手は、とてもあったかかった。
友達なんて誘うもんですか。
絶対に一人で行くんだから・・・・・・
私の心の中は、なぜかぽかぽかしていた。
あの時、彼からもらったばかりの缶コーヒーのように・・・・・・。
すごく心がぽかぽか温まるお話でした。
お財布をなくして心細い彼女に、渡されたコーヒーが彼の優しさを感じました。
よく聴いてくれる人ってなんとなく覚えてしまいますよね。
人間は割と顔を覚えているものですよね。
だから助けたってわけではなさそうですが、人として素晴らしい人だなぁと思いました。
お互いが応援する気持ち、なんだかあったかいですね。
女の子が財布はをなくして、彼が親切にアドバイスをしてくれて、しかも、チケットまでくれるなんて良かったです。これは彼女がいつも歌を聞いてくれた恩返しですね。