最後の渡り

日計場

最後の渡り(脚本)

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〇黒
  ぞろぞろ、ぞろぞろ。

〇渋谷の雑踏
  渋谷スクランブル交差点を、人々が歩いている。
  見ていると、川を渡るヌーの群れみたいだと思う。
  水がない分、ヌーより楽だろうか。
  しかし前後に入り組みつつぶつからずに進む点では、本物のヌーより優っているかもしれない。

〇テーブル席
  自分は今、コーヒーショップの2階席から交差点を見下ろしている。
  本当はこの店に来る予定はなかった。
  だが20分前、駅に向かって歩いていた自分は、電車に乗る前にどうしてもここでコーヒーが飲みたくなった。
  ・・・いや、正確にはコーヒーじゃなく、この席が目的だった。

〇渋谷の雑踏
  このコーヒーはここでなくても飲める。
  世界中にチェーン店があるのだから。
  けれど、通りついでに気軽に入り、あの交差点を眺められるのはこの店だけだ。
  自分が何度も通ったこの道を、上からよく見たかった。
  足跡が見えるわけでもないが、しかし見たかったのだ。

〇黒
  あそこを通るのは、今日で最後だから。

〇黒
  冷めてしまったコーヒーを、それでもゆっくりと飲み干す。
  紙のカップは引っかかりもせず、するんとゴミ箱に吸い込まれた。

〇渋谷のスクランブル交差点
  地上に下りた。
  歩行者用信号は赤。
  車が濁流のように走っている。
  一番近い駅の出入り口が工事中なので、川を渡って別の出入り口に行かなければならない。
  せっかくなら、ど真ん中を渡っておこう。
  川岸にできた信号待ちの列の最後尾に立つ。最後にもう一度、自分もヌーになる。

〇渋谷のスクランブル交差点
  車道の信号が赤に変わる。
  水流が止まり、ヌー用信号が青になる。
  二足歩行のヌーの群れが前にほぐれながら進み始めた。
  眼の前の知らない背中に、自分も少し遅れて付いて行く。

〇黒
  だが、横断歩道の手前で足が止まった。
  ・・・渡れない。

〇渋谷の雑踏
  眼の前にあった背中は自分が止まったことに気付かず、向こう岸に渡って行った。
  向こうから渡って来た顔たちは、自分をただ障害物とだけ認識し、最小限の動きで左右に避けて行った。

〇渋谷のスクランブル交差点
  信号が変わった。鉄砲水のように車が流れ始める。
  渡り切れずに立ち止まってしまえば、間違いなく呑まれて溺れていただろう。
  それか、ほかのヌーたちに踏み潰されていたかもしれない。
  またヌーが列を作り始めた。
  彼らの邪魔をしないために端によける。
  渡らなければならないのは自分も一緒なのに、渡れる気がしない。
  彼らはどこへ行くのだろう。
  これが最後の渡りである人はいるのだろうか。
  名残り惜しくて仕方ない人は。
  怖くて仕方ない人は。

〇渋谷のスクランブル交差点
  ・・・どうやらいないらしい。
  また自分だけが残った。

〇黒
  思わず笑ってしまった。
  交差点すら渡れない。
  この町で生きて行けないのも当然だ。

〇センター街
  寄り道なんかしなけりゃよかった。
  そう思いながら振り返り、コーヒーショップの窓を見上げた。
  さっきまで自分が座っていた席には、すでに別のだれかがいた。
  甘いクリーム山盛りのカップを手に、幸せそうな顔をしている。
  喉の渇きと肌の冷えを感じた。
  恨めしさが、羨ましさが自分の中に湧き立つ。
  なぜ自分はあそこにいない?
  なぜ自分はここに突っ立っている?
  ・・・わかりきったことだ。
  自分で選んだからだ。
  今あそこにいる人は、どこかから歩いて来た。
  この時間、あの店、あの飲み物、あの席を自分で選び、歩いて来たのだ。

〇黒背景
  ここにいたくないなら、動くしかない。
  ここではないどこかを、
  そこへ行くことを、
  選ばなければならない。
  自分はとうに去ることを選んだ。
  だから、行かなければならない。

〇渋谷のスクランブル交差点
  夕方のピークは過ぎたが、それでもまだ赤信号の度に列は作られる。
  もう一度自分も列に加わる。
  その後ろにまたヌーが並ぶ。
  当たり前だが、自分の手を引いてくれる人はいない。
  ここにいるのは、自分が渡るので精いっぱいのヌーだけだ。
  生きたいなら、自力で渡らなければならない。
  信号が青に変わる。

〇渋谷のスクランブル交差点
  岸から足を下ろし、川底を一歩一歩と歩く。
  大丈夫、まだ水は来ない。信号は青いままだ。
  白黒の縞に躓きそうになりながら、正面から来るヌーたちと互いに避け合って進む。
  同じ速さで歩いていれば、後ろのヌーは踏み越そうとはしないはずだ。
  横から来る横着者もいるが、ワニのように噛み付いて来ることはない。
  あと少し。向こう岸まで、あと少しだ。

〇渋谷駅前
  当然ながら、ここを渡り切った感動を共有してくれるヌーなどいない。
  みんな足の速さを変えぬまま、求める方へと進んで行く。
  自分は群れから外れ、駅の入り口前で立ち止まり、振り返った。

〇渋谷のスクランブル交差点
  信号が赤になった。
  また車が流れ、ヌーが並び始める。
  これから初めて渡るヌーはどれだけいるのだろう。
  今日で最後のヌーは。
  明日からも渡り続けるヌーは。
  信号が青になる。
  ヌーの群れが動き出した。

〇渋谷のスクランブル交差点
  岸から踏み出せず立ち止まっているヌーはいない。
  余計な世話ながら、自分は安心した。
  最初だとしても、
  最後だとしても、
  継続の途中だとしても、
  どうであれ・・・
  ここを渡れたなら、大丈夫だ。
  どこだって歩ける。どこへだって行ける。
  だから自分も、大丈夫だ。
  だから、進もう。

〇黒
  自分はまた歩き出す。
  改札を抜けるのにためらいはいらなかった。

コメント

  • ゆっくりとコーヒーを飲み干して決心するところや,ヌーに立ち向かっていく勇気などが,言葉巧みに描かれており,読めば読むほど情景が頭に浮かんでくるような作品でした。

  • 人はヌー、車は鉄砲水、まさに言い得て妙と得心しました。
    作品内に進もうとする主人公の想いが溢れかえっていて、心を強く揺さぶられます。

  • 確かに、何かに挑戦する時の気持ち、こんな感じかもしれない。
    大事なことこそ一歩踏み出す勇気、流れ生を任せる勇気、色々な勇気が必要ですよね。

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