八重の紫(脚本)
〇警察署の医務室
花に言葉があることを知ったのは、高校二年の時分だった。
保険医「──お、まーた擦り傷作ってきたのかい」
そう言って、僕の額を指でつつく思い出の中のあなたは、きっと、今の僕よりも年下だった。
消毒液の香りと、鮮烈な傷の痛み。
もうすこし優しくしてくれと言うと、あなたは決まって、
保険医「男の子なんだから、すこしは我慢しなさいな」
──と、子供のような笑みを浮かべていた。
そんなとき、僕は決まって思うのだ。
この笑顔のためだけに、傷を負っても構わない──と。
〇警察署の医務室
保健室は、聖域だ。
逃げ場所であり、居場所でもある。
一時の救いを求める生徒が、僕の他にも何人もいた。
塹壕の中で語らう僕たちは、紛れもなく戦友だった。
その中のひとりの子が、僕に教えてくれたのだ。
花には、ひとつひとつ言葉がある。
色が違えば、言葉も違う。
桜の花言葉は、「純潔」。
薔薇の花言葉は、「あなたを愛しています」。
すみれの花言葉は、「小さな幸せ」。
目の下のあざが痛々しかったあの子は、今はどうしているだろう。
僕たちは、戦っていた。
世界と戦っていた。
一方的にやられるだけだとしても、生き残ることこそが戦いだった。
僕にとっての敵は、家だ。
それは今も変わらない。
だが、戦い続けられたのはきっと、あなたと、あの白い部屋が、居場所になってくれたおかげだろうと思う。
人は、拠り所がなければ、戦うことはできないから。
〇警察署の医務室
白い部屋には、いつも、同じ花が活けてあった。
紫色の、八重の花。
保険医「アネモネっていうんだよ」
花の名を尋ねた僕に、あなたはそう答えた。
聞き慣れない名前に戸惑っていると、
保険医「本当は、春の花なんだけどね」
保険医「最近は一年中、いつだって見られるんだ」
僕は、その花が好きなのか尋ねた。
保険医「いや──」
あなたは、困ったように微笑みを浮かべ、言った。
保険医「・・・大嫌いだよ」
「嫌い」は「好き」より強い。
そのことを、僕は、嫌と言うほど知っている。
〇警察署の医務室
卒業式の前日、僕は、保健室を訪ねた。
決意と言葉を胸に秘め、あなたの元を訪れた。
あなたは、紫色のアネモネの茎を握り締め、目を閉じていた。
保険医「──ああ、君か」
保険医「明日、卒業だね」
保険医「君がもう来ないと思うと、寂しくなるなあ」
あなたの言葉が耳朶を打つ。
あのとき、僕はなんと返しただろう。
正直なところ、よく覚えていない。
僕は、既に知っていた。
紫色のアネモネの花言葉は、「あなたを信じて待つ」。
僕は、最初から失恋していたのだ。
〇空
今でも、消毒液の匂いを嗅ぐたびに、あなたのことを思い出す。
それでも告げるべきだった想いを胸に抱いて、ほろ苦い後悔と共に。
保健室ってたまにしか行かなかったけど、なぜか先生のことはよく覚えています。きっと男の子なら、先生に対して特別な感情を持ったことのある子もいるんじゃないかなあ。切ないけど、なんだかよく気持ちがわかるお話でした。
とても情緒のあるストーリで、静かな保健室での二人の会話が聞こえてくるようでした。青年時代の淡い恋心を回想したとても美しい文章でした。
ストーリーがとてもきれいなお話しだと思いました。切ない切ない思いでと、微妙な気持ちの変化、よく伝わってきました。楽しく読ませて頂きました。