#アンダークラスヒーロー

乙杉和平

読切(脚本)

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〇レトロ喫茶
  本当に困っている人はいつだって小声だ。彼らはその小さな叫びを上げることすら憚る──
あさひ「望さんの精子をください」
  僕はなるべく、その人たちの声に耳を傾けたいなと思っている。
望「・・・え?」
  あさひさんに呼び出されて向かった先は、商店街にあるレトロな喫茶店。
  僕らが会うときはいつも人気の多い場所だったから、少し妙だなと感じていた。
  店のいちばん日の当たらない席で僕らは面と向かって話している。
望「あさひさん、それは性行為のお誘いでしょうか?そういう要望でしたら、たいへん申し訳ありませんが、全てお断りして・・・」
あさひ「・・・違います」
  あさひさんは店内に流れるジャズの音にかき消されそうなくらい小さな声で否定した。
望「違う、といいますと?」
あさひ「性行為は望んでいません」
  垂れた髪が柳の木のようになって、俯いたあさひさんの表情を隠している。
望「つまり僕の『精子』だけを望んでいると?」
  あさひさんは頷いた。
望「そういう要望でしたら、然るべき機関に相談されてみてはいかがでしょうか?」
  僕はあさひさんの苗字を知らない。そもそも『あさひ』も偽名かもしれない。

〇テラス席
  会うのは今日で三度目。
  いずれも人で賑わうカフェで二時間ランチをした。
  あさひさんの日頃の些細な悩みを僕が一方的に聞いて「日銭」を受け取って解散する。
  それだけの関係である。

〇レトロ喫茶
  「付き合いたい」とか、ましてや「家族になりたい」だとか、そういった願望があるようには感じていなかったので妙な気分である。
あさひ「私は男性を必要としない人生を歩みたいんです」
  いつの間にかあさひさんがこちらを覗いていることに気がついて、思わずのけぞってしまった。
望「・・・男性を必要としない人生?」
あさひ「私は男性が嫌いです」
あさひ「これまで何とか自立をして、自分でお金を稼ぎ、男性に頼らない生き方を選んできました」
あさひ「でも時々、考えるんです。このまま一人、年老いたときに私、ちゃんと幸せに暮らしているのかなって・・・」
あさひ「そしたらどうしても家族が欲しくなって・・・」
  彼女は静かに涙した。
望「・・・大丈夫ですか?」
あさひ「もうあまり先延ばしにできる問題ではなくなってきたので・・・」
  『選択的シングルマザー』
  自らの意思で結婚をせずに母になることを選ぶ女性のこと──
望「そういった意向に沿った専門機関もあるのに、どうして僕なんですか・・・?」
あさひ「私のようなアンダークラスの人間には何もかもハードルが高くて・・・」
  この涙は何という名前の涙だろうか。
  多くに人は理解できない、彼らの中で大きく膨れ上がった絶望の涙だ。
  現実はきっと、もっと複雑なんだろう。
  僕にも、多少の覚えがある。
望「確かに、希望は必要ですよね・・・」
  彼女にその声が届いたかどうかはわからない。
  ジャスの音が、僕の声を、彼女の泣き声を、混沌とした空気をすべて飲み込んだ。

〇電車の中
  今日は三時間だったので、約三千円の報酬を受け取った。
  時給は東京都の最低賃金で承っている。
  交通費とかかった経費はレシートにて請求。おかげで僕の財布は赤が入ったレシートでいっぱいである。
  窓口はSNSで、連絡手段はダイレクトメッセージのみである。
  どこで誰の目に留まるのか把握できていないが、日銭が入る程度には需要がある。
  アカウント名【希望】
  ID【@kibou_family】
  プロフィール欄は
  【178/64/20代♂】【傾聴屋】
  【お悩みはDMまで】の文字が並ぶ。

〇改札口前
  改札を出たところで見覚えのある顔が目に飛び込んだ。
  遠くから声を掛けようとしたけど、彼は降ってもいない雪でも見ているかのように空を見上げていた。
  なんだか気が引けてしまって、声をかけるのをやめた。

〇コンビニの店内
  今日はプリンの気分である。
  ちょっと贅沢なやつを二つ買って、帰路に就いた。

〇玄関内
望「ただいま」

〇玄関内
  玄関の電気を点けると、きちんと揃えられた革靴が照らされた。
  誰に指摘されるわけでもないが、いつの間にか僕も靴を並べるのが習慣になった。

〇おしゃれなリビングダイニング
  リビングのドアを開くと、何かをダイニングへ運んでいる将悟さんの姿が見えた。
将悟「おかえり、今日は鍋だよ」
  帰宅して間もないのだろう。将悟さんはスーツ姿にエプロンをしていた。
望「その恰好おもしろい。サラリーマンと主婦の融合って感じ」
  将悟さんは笑いながら、一切の動作を止めず手際よく夕飯の支度をする。
  家に帰ったら、僕は基本的に何もしない。それは実家の母と息子の構図と瓜二つである。

〇おしゃれなリビングダイニング
  初めの頃は、気を遣って手伝おうと試みたが、圧倒的レベチにより改心。

〇おしゃれなリビングダイニング
  今では堂々と何もしない。空気を読む。これが僕ら家族の最も正しい形なのである──
  夕飯を待っている間、僕らは今日あった出来事について報告しあった。
将悟「友人を招いてする結婚式ってさ、簡単に別れることができないように自縛してるみたいだよね」
  結婚式に行っていたのでスーツ姿だったらしい。
  私服しか見たことがなかったので、少し新鮮な気分だった。
  ようやく将悟さんも席に着いた。
  同時に「いただきます」と言うのも、誰が決めたでもなく、二人のルールになっていた。
将悟「今日はどんな傾聴してきたの?」
  個人情報は教えないという線引きをした上で、僕は今日あった出来事を話した。
将悟「『男性を必要としない人生』か、なかなか男前だね」
望「それ皮肉?将悟さんは理解できる?」
将悟「理解は・・・できない!」
将悟「そもそも男性を頼らないで生きるって人間の構造的に無理だと思う」
将悟「男女が結びついて成り立っていることはこの世の紛れもない事実だし・・・」
将悟「男は要らない、女は要らないって、生命維持の観点からするとノイズでしかないよね」
望「でもさ、彼女にとってはそれが最大の絶望ポイントというか・・・」
望「男性を必要としない人生を歩みたいけど、男性の力を借りないと家族は持てないという相容れない感情が拮抗した結果・・・」
望「大きなあがきに出たのかなって思ったよ」
  そう言うと将悟さんは何かを思い浮かべた様子で「なるほどね」と意外とすんなり飲み込んだ。
  一時間ほどで夕食を終えると、リビングに移動し、プリンを食べながら、社会の苦い部分を斬った。
  将悟さんが毒を交えて話すのは、本人曰く『心を開いている証拠』であるという。
  普段はデザイナーとしていて、毒は封印。仏様を装っているらしい。
将悟「・・・じゃあ、シャワー入ってくるね」
  午後十時、将悟さんは決まってシャワーに入る。
望「あ、うん・・・」
  僕はこの瞬間だけいつも反応に困る。微笑んでやり過ごしているけど、内心は穏やかでない。
  こちらを一瞥せず、浴室へ向かう将悟さんの後ろ姿を見ながら、物理的に、心理的に何かが離れていくような心情である。
  浴室の方からシャワーの音が聞こえ始めた。

〇システムキッチン
  台所に移動する。シンクには汚れた食器が溜まっている。
  その横の作業台に置かれた『望へ』と書かれた封筒を手にした。
  日銭とプリン代と交通費の三千円が入っていた。

〇玄関内
  玄関で靴を履き、外に出る。最後に施錠をし、本日の業務はすべて終了である。

〇レストランの個室
将悟「俺の家族になってほしい」
  将悟さんの要望である。
  平日の20~22時、夕食を共にしてほしいと言われた。
  もちろんそれ以上の要望はなかった。
  『シャワーに入っている間に帰る』これは当初からあるルール。
  極力、ご要望には応えるのが我が仕事の流儀だ。

〇通学路
  真意はわからないが、特にトラブルもなく、こんな生活を一年間続けている。
  今では合鍵を作ってもらい、お預かりしている。
  一年間で築き上げた信頼の賜物だと思っている。
  本当に困っている人はいつだって小声だ。彼らはその小さな叫びを上げることすら憚る。
  僕はなるべく、その人たちの声に耳を傾けたいなと思って『傾聴屋』を営んでいる。
  そんなことを考えながら、家路に就く。

〇マンション群
  誰もいない本当の我が家へ──

コメント

  • 傾聴屋という言葉には何となくノスタルジックな響きがあって、物語全体を包む少し切ない雰囲気と合っていますね。将悟やあさひのような依頼人が望む「偽りの絆」の関係が、望自身の人生の孤独感を募らせていくようで最後はやるせない思いに包まれました。

  • あさひの告白もそうですが、傾聴屋と将悟の関係にびっくりしました。話の流れがとってもいいし、話の終わり方も綺麗で好きでした。

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