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mozu9

読切(脚本)

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〇スーパーの店内
  樋口奏は悩んでいた。
  両手に握られたものを、何度も視線で往復する。
  今日くらいは、という思いで左手の発泡酒を棚に戻しかけ、いや、ここは節約かと右手に持つビールを下ろそうとする。
樋口叶「お父さん、これがいい」
  10歳になる娘の叶に服を掴まれてはっとする。
  叶は叶でお菓子を選んでいたはずが、いつの間にか横に立って奏を見上げていた。
  奏は悪戯を指摘された子どものように、ぎこちない笑顔で向き直る。
樋口奏「どれがいいって?」
樋口叶「これ」
  叶は指を天井に向ける。
  どれ?と視線を上げて、そして気付く。
  店内に流れるBGMだ。
樋口奏「ああ、これは」
  聞いたことのある、懐かしい音楽だ。
  近頃SNS取り上げられたようで、再ブレイクした曲のはずだ。
樋口奏「確かに、いいね」
樋口叶「今日はこれにしよ?」
  叶の提案に奏は同意を示す。
  悪くない選曲だ。
  叶に笑いかけて、手に持っていた商品を両方とも棚に戻した。
  今日は酔っている場合ではなさそうだ。
  既に買い物かごに入っていた食品を清算するため、二人はレジへと向かう。

〇おしゃれなリビング
  買い物から帰ると、奏は手早く食品を冷蔵庫に片付け、ipadで譜面を調べる。
  自分のアコースティックギター用と、それから娘のピアノ用の譜面を購入すると、プリンターで印刷した。
  楽譜は紙で、というのはこの家の方針だ。

〇豪華な客間
  印刷が終わると、音楽室と呼んでいる部屋へと持っていく。
  いくつかの楽器と、様々な楽譜や譜面が部屋の隅に乱雑に置かれている。
  家族の憩いの場だ。
  部屋に入ると叶がグランドピアノの前で運指の練習を始めていた。
  幼く小さい手であるが、滑らかに、そして軽やかに鍵盤を叩いている。
  親というひいき目もあるだろうが、娘は間違いなく天才の部類だろう。
  神童といってもいい。
  本来ならば正しい師の下で学ばせるべきなのだろう。
  しかし、音楽に対する好き嫌いの多い子であるため、
  嫌いな楽曲を強制された挙句に音楽そのものを嫌うという形になることだけは避けたかった。
  好きなことを好きなだけさせたい。
  親としては、それで十分ではないか。
  ほとんど使われず、新品同様で床に積まれるクラシックの楽譜を尻目に、譜面台に印刷したばかりの新しい譜面を置く。
樋口叶「やった!」
  叶はさっそく譜面に目を通し、すぐさま音符に合わせて指を動かした。
  小さな指が鍵盤に触れ、鍵盤に連動したハンマーが弦を叩く。
  振動が駒から響板に伝わり、単一な音がやがてメロディとなって部屋を包み込んだ。
  何度か詰まる部分を繰り返し、音楽としての形にしていく。
  奏はひとしきり眺めた後、部屋の壁に立てかけてあったアコースティックギターのケースを持つと部屋から出た。
  自分の練習をするためだ。

〇おしゃれなリビング
  居間に戻ると、さっそくケースから本体を取り出す。普段使いの椅子に腰を下ろし、足を組むとチューニングを始めた。
  慣れたもので、音叉も必要ない。
  ものの数秒で聞き慣れた音が響き始めた。
  布で弦を軽く拭き、アルペジオで指を動かす。
  それが終わるといくつかのコードを弾く。
  ここまでが一つのルーティーンだ。
  ふと気になり、曲名を検索する。
  発表されたのは奏が生まれた年だった。
  良い作品は時代を問わないというが、自分と同い年の曲が再評価されるのは妙なくすぐったさがある。
  かつてこの曲を聞いた子どもの頃の記憶を呼び覚まし、譜面に書かれたコードを練習する。

〇おしゃれなリビング
「ただいまー」
  妻の美歩子の声が玄関から聞こえ、奏は時計を見た。
  正確な時間は覚えていないが、1時間は練習したのではないか。
  コードの種類もそこまで多いわけではないので、曲自体は通しで演奏できるようにはなっていた。
樋口奏「おかえり。どうだった?」
  美歩子は地域の主婦を集めたコーラスクラブを主催している。
  日は午後から市民ホールの一室を借りての発表会があったのだ。
樋口美歩子「最高。はい、おみやげ」
  美歩子は満面の笑みを浮かべて、紙袋を机の上に置いた。
樋口奏「お、ありがとう」
  中を覗くといくつかの総菜が見える。
  ほとんどが叶の好みに合わせたものだったが、酒のつまみもあった。
樋口美歩子「なんの曲練習してるの?」
  美歩子は譜面を持ち上げて、歓声を上げる。
樋口美歩子「この歌めちゃくちゃ好き」
樋口奏「いいよね、これ。叶がこれをやりたいって言ってさ」
樋口美歩子「最高だね。何で知ったんだろ?」
樋口奏「スーパーのBGMで流れてたんだ」
樋口美歩子「なるほどねー」
  ちょっと着替えてくるわ、と美歩子は寝室へ向かった。
  奏はギターの弦を布で拭き、ペグを緩めるとケースへと片付ける。
  夕食の用意をしなければ。

〇豪華な客間
  手早く夕食を済ませると、三人は音楽室へと向かった。
  いつも通り、部屋の隅に録画用のカメラをセットする。
  叶はピアノの前へ、奏は壁沿いにあった椅子を引き寄せて叶の後ろ側に座り、美歩子はピアノの横に立つ。
  叶は再度運指の練習をはじめ、奏はギターのチューニングをして簡単なコードを弾く。
  美歩子は背筋を伸ばして発声練習をした。
  準備が整うと叶が美歩子に笑いかけ、そして美歩子は奏に向かって頷く。
  今までの練習時間が嘘のように、一時的な無音が部屋を覆った。
  叶の演奏が始まった。
  流れるようなイントロに合わせて奏の指先に触れる弦が揺れる。
  2つの楽器が綺麗な和音を響かせて、歌詞へと続く土台を作る。
  美歩子の息を吸う音が聞こえる。
  歌声に空気が震え、3つの音が溶け合った。
  3人で紡ぐアンサンブルは止むことなく、5分程度の音楽を心地よさですっかり満たしていた。
  叶のアルペジオで曲を締め、息遣いが取り残される。
  ふと漏れる笑顔が、楽しい時間の終わりを招いた。
樋口叶「よかったね」
  叶の言葉に、美歩子は楽しげに答える。
樋口美歩子「ほんと、最高」
  奏はギターをケースの中に置くと、カメラを確認して録画を止める。
  今日もいい演奏が撮れた。
樋口奏「じゃあこれ、じいちゃんのところに送るね」
  こうして録画した演奏は祖父母に送る。
  遠くに住む2人が楽しそうに見る姿が目に浮かんだ。
  これが、この家族の日常だ。
  曲と、歌を紡ぐ、このアンサンブルが。

コメント

  • 音楽におけるensembleという言葉の真の意味を体現している家族だと思います。普通の親なら叶ちゃんの才能を埋もれさせたくないからYouTubeで配信しそうだけど、そうはせずにあくまでも(祖父母も含めた)家族内で完結させるところに意義があるんでしょうね。

  • 子供がピアノなどを習うのって技術の向上目的で、残念ながらあまり意欲がわかない気がします。才能を開花させてあげるには、このご両親のような見届け方が必要なんだなあと思わせられました。

  • なんて素敵な家族なんでしょう😌
    すごくお上品な感じがするし、家族で演奏するのは本当に仲良しじゃないと出来ないと思うし、音楽を嫌いにさせたくないからピアノ教室には通わせないとか、すごく愛情を感じるし、そんなお家で育ってる叶ちゃんは、のびのび良い子に育つんだろうなあと思います。

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