真実を映す瞳(脚本)
〇美術室
みそら美術研究所では、美術大学への進学を希望する高校生が日々画力向上に励んでいる。
飯田香澄「うーん・・・・・・ダメだ」
美術大学の実技試験では、絵の具を用いたイメージ表現課題が出題される。
受験を間近に控えた私たちは、その対策を始めていた。
これまで繰り返し行ってきた鉛筆デッサンとは違った難しさがあり、受験生たちは毎日頭を抱えている。
その中で一人、異彩を放っている人物がいた。
所長「夏樹君は、本当に色彩課題になると化けるわよね」
芝田夏樹「いえ、僕の場合は基礎である鉛筆デッサンが駄目ですから。色で、誤魔化しているだけです」
所長「そんなことは、無いわよ。鉛筆デッサンは、所詮見る力を鍛えるための練習だから」
所長「だから、上手く描けなくてもいいのよ。それ以上に、絵には人を惹きつける能力が必要になるわ」
芝田夏樹「そういう、ものでしょうか」
所長「そういうものよ。安心して、あなたの実力は私が保障するから」
三年生になってから、この美術研究所に入ってきた夏樹君。
みるみるうちに成長し、一年生からここにいる私を軽々と追い越していった。
彼の作品は、荒削りながらも人を惹きつける魅力がある。
そんな作品を目の前にして、陰口を叩いていた誰もが口を閉ざした。
所長「それじゃあ、合評を始めるわよ。皆、作品を並べて」
所長の声と共に、それぞれが作品を出し始める。
私は、他の受験生の作品を見ながら自分の作品の出来栄えを確認することにした。
飯田香澄「やっぱり、夏樹君のは凄いな・・・・・・」
彼が描いたのは、女性の絵だった。
それは緻密画とは程遠い荒々しいタッチであるが、生命力に満ち溢れた力強さを感じるものだ。
私はすっかり自信を失い、溜息をつく。すると、隣にいた夏樹君がぽつりと呟いた。
芝田夏樹「香澄さんの絵、とても繊細で綺麗だな」
飯田香澄「えっ?」
芝田夏樹「あ、ごめん。つい、声に出しちゃった」
飯田香澄「そ、そうかな。ありがとう」
彼の言葉に、思わず頬が緩む。
今まで、誰にも褒められたことが無かった。個性の欠片も無いと、ずっと言われ続けてきたのだ。
所長「はい、じゃあ順番に自分の作品の見どころやこだわったところを発表してね」
所長の言葉に、我に返る。
私は自身の作品の前に立ち、説明を始めた。
合評は数時間にも及び、生徒たちはそれぞれの作品の感想を言い合っていく。
終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
〇山間の田舎道
帰り道、街灯の少ない田舎道を歩く。
今日一日を振り返るように空を見上げながら歩いていると、背後から誰かに声をかけられる。
芝田夏樹「ねぇ、ちょっといい?」
振り返るとそこには、夏樹君が居た。
彼に話しかけられることなんて今まで無かったから、思わず心臓が飛び上がってしまう。
飯田香澄「ど、どうしたの? 私に、何か用?」
芝田夏樹「いや、さっきの合評の時の話なんだけどさ」
芝田夏樹「香澄さん、電車一緒だったよね。ちょっと、話せないかな」
〇電車の中
無人に近い電車に乗り込むと、彼は話を始めた。
その内容というと至って真面目なもので、使っている筆のこととか、描く時のコツ等だ。
芝田夏樹「やっぱり、香澄さんは凄いや。僕が知らないこと、いっぱい知っているんだもん」
飯田香澄「私からしたら、よっぽど夏樹君の方が凄いけどね」
芝田夏樹「そんなこと、無いよ」
飯田香澄「そう言えば夏樹君って、進路はどこに決めているの?」
芝田夏樹「ああ、進路か。高校を出たら、就職するつもりだよ」
飯田香澄「えっ!? どうして・・・・・・勿体ない!」
芝田夏樹「僕は、描きたい絵があるんだ。それを描ければ、もう絵はきっぱりやめようと思っている」
飯田香澄「そうなんだ・・・・・・。その描きたい絵って、私には話せないようなもの?」
芝田夏樹「いや、というより自分自身よく分かっていないんだ。僕は、彼女のことを何も知らないから」
飯田香澄「彼女?」
芝田夏樹「ううん、何でも無い。駅、着いたみたいだよ。早く、降りなよ」
飯田香澄「あ、いけない。それじゃあ夏樹君、また明日ね」
芝田夏樹「うん、また明日」
〇美術室
彼が姿を消したのは、それから数週間後のことだった。
所長は何も語らず、その真相は噂話として受験生たちの間で囁かれていた。
夏樹君がストーカーに付き纏われていただとか、実は病気を患っていて療養のために辞めていったなど様々な憶測が広がった。
だけど結局何も分からず、彼の存在は私たちの記憶から薄れつつあった。
そんな、ある日のことだった。
飯田香澄「あれ、もうこの棚はいっぱいですね。所長、何枚かキャンバスを外に出しても良いですか?」
所長「いいわよ。後で、別の棚に移しておくわ」
飯田香澄「分かりました」
私は、棚から生徒作品を一通り出して外に並べる作業を行うことにした。
キャンバスは意外と重いため、一つずつ丁寧に床に置いていく。
その時、一枚のキャンバスが目に留まった。
飯田香澄「これ、夏樹君が描いたものだ」
そこに描かれていたのは、以前も彼が描いたことのある女性の姿だった。
だが彼が描いたとは思えないほどの緻密なタッチは、まるで写真のように現実味を帯びている。
じっくりと、観察してみる。特に、瞳の描写が印象的だった。
飯田香澄「この人、誰なんだろう」
〇街中の道路
それから、二年の月日が流れた。
私は希望通りの美術大学に進学し、毎日忙しい日々を送っている。
飯田香澄「あの、女性は・・・・・・」
見覚えのある、姿。
それは、美術研究所で夏樹君が描いた女性そのものだった。私は、思わず声を掛ける。
飯田香澄「すいません!」
女性「え、はい・・・・・・どなたでしょうか?」
飯田香澄「夏樹君の、知り合いの方でしょうか? 実は彼の行方が分からなくて、ずっと気になっていたんです」
女性「もしかして、香澄ちゃん?」
飯田香澄「どうして、私の名前を知っているんですか」
女性「ここでは話しにくいから、喫茶店にでも入ろうか。時間は、あるかな」
飯田香澄「はい、大丈夫です」
〇カウンター席
私たちは、近くの喫茶店へと入ることにした。
彼女はコーヒーを注文すると、おもむろに語り始める。
女性「夏樹はね、私だよ」
飯田香澄「え、それはどういう・・・・・・」
女性「そのままの、意味。私の戸籍上の性別は、男性。骨格とか、目元とか色々似ているでしょう?」
飯田香澄「えっと・・・・・・本当に、あなたが夏樹君なの?」
女性「そうだよ。私の描いた絵を、見てくれたんだよね。それで、声を掛けてきた」
女性「あの絵は、私の心の中にあった女性像そのものなの」
飯田香澄「もしかして、トランスジェンダーってやつ?」
女性「そうなんだと、思う」
女性「ずっと、自分の存在に違和感を感じてきた。絵を描くことで、本当の自分を見つけようとしていたんだ」
女性「そして、ようやく見つけた。今の私が、本当の夏樹だって」
飯田香澄「そうなんだ・・・・・・」
飯田香澄「でも、良かったよ。夏樹君が、事故に遭ったんじゃないかとか色々心配したんだから」
女性「ごめんね。こんなこと、普段人には怖くて話せないから」
飯田香澄「どうして、私には話してくれたの?」
女性「香澄さんなら、私のことを理解してくれる気がしたから」
飯田香澄「私も、本当に理解できている訳じゃないけどね」
女性「それでも、話を聞いてくれてありがとう。やっぱり、香澄さんは優しいね」
飯田香澄「そ、そんなことないって」
彼女の言葉を聞いて、思った。
本当は、誰しもが自分と言う存在をちゃんと理解してあげられていないのかもしれない。
何故なら、人間は他者を通しても自分の存在を確認するから。
もしその認識が自身の認識と乖離していたとしたら、自分が何者なのかも分からなくなってしまうんだと思う。
それでも本当の自分を見つけることが出来たとしたら、きっと人間は自らを愛することが出来るのだろう。
最初は恋愛物なのかと思ったらミステリーのような展開になり、最後は読者の意表をつくヒューマンドラマに着地し、読み応えがありました。ジェンダー問題は社会の対応がクローズアップされがちですが、本人の心の葛藤について考えさせられました。
性同一性障害について、それを理解する導入になるストーリーだと思いました。それとは別に又、各々が自身を知ることへのエールのようなメッセージも受け取れました。