〇教室
　　夏休みが明けて１ヶ月以上も経ったのに、まだ暑さの残るある日の放課後。
　　教室には私と彼以外、誰もいない。
　　目の前には白紙の進路調査票。
　　彼は静かに本を読んでいる。
　　静けさが満ちた教室に、部活に精を出す運動部の声と、どこからか聞こえる吹奏楽部が練習している音が届く。
　　思いつくことは特になく、進路票を書くのを諦めてシャーペンを置く。
　　彼越しに見える窓の外は、もうすっかりオレンジに染まっている。
　　見慣れたはずのその光景に思わず見入ってしまう。
細竹光喜「ん？どうした？」
　　その視線に気づいた彼は、本から顔を上げる。
　　私には彼に言ってこなかったことがある。
　　仮に話したとしても、きっと笑って流されてしまう。
　　それに、彼は結局忘れてしまうのだから、わざわざ話すまでもない。
袖下リン「ねえ、もしも私がかぐや姫だとしてさ、」
　　なんの脈絡もなく口にしたその言葉に、彼はキョトンとする。
細竹光喜「・・・・・・なんて？」
袖下リン「だから、もしも私がかぐや姫だったら」
　　少し考えてから、彼は諦めたように私を見る。
細竹光喜「よくわかんないけど、それで？」
袖下リン「”今夜、月に帰るの”って言ったらどうする？」
　　現実離れした、到底ありえない話に彼は首を傾げる。
細竹光喜「ていうか、その話はどこからきたんだ？」
袖下リン「話題変えようとしてるでしょ」
袖下リン「いいから、細かいことは気にしないで、ただ私がかぐや姫で今夜月に帰るとしたらどうするって話」
細竹光喜「そんな例え話されてもなあ・・・・・・」
　　困ったように呟きながら、次第に彼は真剣に考え込んでいるようだった。
　　しばらくその横顔を眺めていると、ふと彼がこっちを向く。
細竹光喜「もしもリンがかぐや姫で、今日帰るなら」
袖下リン「うん・・・・・・」
細竹光喜「帰らせない、かな」
細竹光喜「帰るって言われて、はいそうですかって納得なんかできないだろ」
細竹光喜「もうずっとここで暮らしてきたんだから、これからだってずっとここにいればいい」
　　その答えだって嬉しい。けれどそうではない。
袖下リン「そんなことできないよ。 だって、結局かぐや姫は月に帰っちゃうでしょ？」
袖下リン「ねえ、光喜ならどうする？」
細竹光喜「なら俺は、今夜、今まで以上にお前を愛すよ」
　　その言葉だけで充分だと思える。
　　それだけで、私はこれからも笑っていられる気がする。
袖下リン「・・・・・・ありがとう」
　　嬉しくて、幸せで、だからこそ寂しくて、苦しくて、悲しくて。
　　たとえ彼が忘れるとしても、最後は笑っていたくて、目に溜まった雫をこぼさないように小さく笑う。

〇ファンシーな部屋
　　彼に初めて会ったのは10歳のとき。
　　転校先の学校に彼がいた。
　　いつかこの場所を去る身であるにもかかわらず、その時にはこの世界の人たちに私の記憶は残らないにもかかわらず。
　　それらをすべてわかっていながら、彼に惹かれ、彼の側にいた。
　　私はこの地球によく似た、違う世界で暮らしていた。
　　所謂パラレルワールドと呼ばれる場所。
　　ここよりも時間の進みが少し速い場所。
　　そこで私は、病を患った。
　　その進行を少しでも遅らせるためにこっちに来ていたけれど、むこうで治療法が確立され、私は元の場所に帰ることになった。
　　この世界で過ごした”袖下リン”という偽りの人物は元々存在しない。
　　私がここを去るとき、袖下リンという人物はみんなの記憶から消えてなくなる。
　　明日の朝、目を覚ました彼の中に、私の存在は欠片も残っていない。
　　見上げた月は満ちていて、憎いくらいに綺麗だった────