エピソード3(脚本)
〇黒
それから今後の打ち合わせを軽くして、私は雪也さんと一緒に住む部屋へ帰った。
〇部屋の前
伊藤 さゆり「ただいま」
私がそう言って靴を脱いでいる最中も、雪也さんは浮かない顔のままだ。
伊藤 さゆり(まだ何か言いたいことでもあるのかな・・・)
彼の様子を見ていると、やがて視線が重なった。
佐野 雪也「・・・あの、さゆり」
佐野 雪也「さゆりが色々考えて出した結論だとは分かってる」
佐野 雪也「でも、周りにはどう説明すればいいんだ?」
雪也さんは不安そうに視線を動かした。
伊藤 さゆり(覚えていないとはいえ自分が原因なのに)
少しは頭を働かせたら? と言いたくなる気持ちを堪え、私は笑顔を浮かべた。
伊藤 さゆり「黙っていればいいんじゃない」
伊藤 さゆり「私に美智とのことを隠していたみたいに」
よくよく思い返せば、確かに少し前、雪也さんが家に帰らなかった日があった。
雪也さんは仕事を辞めて都内に引っ越したばかりだったし、息抜きでもしたいのだろうと放っておいたのだ。
伊藤 さゆり(まさかあの時美智と一緒にいたなんて想像もしなかったな)
無理にでも帰ってきてと伝えていれば、こうはならなかったかもしれない──なんて、今考えても遅いけど。
伊藤 さゆり「本当にもう、全然気づかなかったよ~」
嫌味半分、本音半分だ。
苛立ちが声に混ざってしまったのか、雪也さんが頭を下げてきた。
佐野 雪也「・・・本当にごめん」
伊藤 さゆり(謝られてもどうにもならないし)
でも、確かに彼の言う通り、周りの人にどう説明するかは少し悩んでしまう。
幸いにも私達はどちらも実家が遠方なので、直接会わなければ適当な言い訳で繕えるだろう。
伊藤 さゆり(会社への報告が面倒かもしれないな・・・)
伊藤 さゆり(まあ、どうにでもなるか・・・というより、どうにかするしかない)
伊藤 さゆり「雪也さんには私と幸せな家庭を築いてもらわないと困るの」
伊藤 さゆり「だから、色々と協力してね」
佐野 雪也「・・・分かった」
この先どうなるかなど私にも予想できない。
でも、やりたいようにやらせてもらう。
私にはその権利があるはずだから。
〇カウンター席
雪也さんと美智に呼び出されたあの日から、ある程度の日数が経過して──
雪也さんとの入籍を済ませた頃には、美智のお腹はすっかり大きくなっていた。
伊藤 さゆり「お腹、大きくなったね」
定期的に健診の報告をするように約束していたので、お腹の子がどれくらい成長しているのか、
美智の身体の調子はどうなのかは把握していた。
でも実際に膨らんだお腹を見ると、いよいよ産まれるんだという実感が湧いてきた。
伊藤 さゆり「触ってみてもいい?」
松本 美智「あ・・・うん」
私の提案に、美智は戸惑ったように頷いた。その顔にはどこか怯えの色もあるように見える。
伊藤 さゆり「別に変なことは考えてないよ。ちゃんと産まれてくれないと私も困るし」
そう言って、美智の腹部に手を当てる。
彼女のお腹は温かく張りがあった。
この向こう側に赤ちゃんがいるのだと思うと、不思議な感じだ。
伊藤 さゆり(元気な子が産まれますように・・・)
産後、美智が退院してから私が赤ちゃんを引き取る予定だ。
伊藤 さゆり(不安はあるけれど・・・大好きな人同士の赤ちゃんを育てられるのは、きっと幸せなことなんだ)
そう言い聞かせた時、手のひらの向こう側で美智のお腹が動いた。
伊藤 さゆり「あ、動いた」
松本 美智「もう少しで外に出られるって知ってるのかな、最近はすごくよく動くんだ」
松本 美智「・・・」
松本 美智「・・・私、一人でも頑張って産むからね」
松本 美智「お腹の子と離れるのは嫌だけど、それがさゆりに対して出来る唯一の償いだと思ってるから」
美智は未婚で頼れる家族もいなくて、普通の出産とは状況が違うのだ。
様々なことに対して不安を覚えるのも仕方ないだろう。
伊藤 さゆり「・・・そうだね 頑張って」
それ以外に掛ける言葉が見つからない。
伊藤 さゆり(以前までの私だったら、もっと美智に寄り添って励ませたのかな)
美智に対しても、雪也さんに対しても、いつも通りの態度で接しているつもりだった。
激しく責め立てることもしないし、目の前で泣きわめいたりもしていない。
それでも、当たり前だけど私達の関係には亀裂が入っている空気があった。
でももうそれをどうにかしようとする気力はない。
私の感覚は、完全に麻痺してしまっているのだと思う。
〇黒
そして──美智は約束通り、一人で出産を乗り切った。