読切(脚本)
〇美容院
目もない、鼻もない。
私に判別できるのは時々呼吸をする為に開く口だけだ。
私には、人の顔を判別することができない
ナンシー「髪型はどうされますか?」
ドミニク「いつもと同じでいいです」
ドミニク「髪型にこだわりはないから」
ナンシー「分かりました。 いつもと同じ似合う髪型にしますね」
ドミニク「いつものように、お任せで」
ナンシー「短めに切りそろえて、髪は油でツヤを出し、真ん中で分けて整える」
ナンシー「それで宜しいですか?」
ドミニク「それで大丈夫です」
ナンシー「本当に、こだわりはないんですね」
ドミニク「いや、ナンシーさんの腕を信頼しているからです」
ドミニク「でもナンシーさんに髪を切ってもらってから、女性にモテるようになった」
ナンシー「引く手あまたなんですね」
ドミニク「そこまでじゃないですよ。モテると言うのも、だいぶ誇張した表現です」
ドミニク「でも女性に話しかけられることは本当に増えた」
ドミニク「嬉しいことです」
ナンシー「私から見てもカッコいいと思いますわ。その髪型は本当にお似合いですもの」
ナンシー「私はそう彼に伝えるが、本当に似合っているかは分からない」
ナンシー「私は生まれつき、人の顔を見分けることができないのだ」
ナンシー「最近、ドイツの神経学者が相貌失認と名前をつけた症状。 それが私の病気だ」
ナンシー「では、始めますわ」
ドミニク「宜しくお願いします」
ナンシー「女性に声を掛けられることが増えたとおっしゃていましたけど、お付き合いはされないんですか?」
ドミニク「話しかけてはくれるけど、その後の話しをうまく続けることができないんです」
ドミニク「口下手なんです、僕は・・・・・・」
ナンシー「そうなんですか? 私と話している時には、そんなこと感じませんのに」
ドミニク「なぜかナンシーさんは話しやすいんです。どうしてかな・・・・・・」
ナンシー「きっと、こうして髪を切りながらだから、余計な意識をしてないからだと思います」
ドミニク「それはあるかもしれません。 女性を前にすると、どうしても緊張してしまって」
ナンシー「ふふっ、そんなに不安に思う事なんてありませんよ」
ナンシー「私とこうして、お話しできるんですから、他の女性の方達とも、普通にお話しできますわ」
ドミニク「だと良いんですけどね」
ナンシー「ナンシーさん、女性を食事に誘う時に良い誘い方を知りませんか?」
ナンシー「あら、気になる方はいらっしゃるんですね」
ドミニク「そりゃあ、僕にだってそんな人くらい居ますよ」
ナンシー「ごめんなさい。悪気があって言った訳じゃないんですよ」
ナンシー「純粋な興味です」
ナンシー「ナンシーさんもそう言う話しに興味を持たれるんですね」
ナンシー「それは・・・・・・私も女性ですから」
ドミニク「それで、どうしたら良いでしょうか?」
ナンシー「素直に自分の気持ちを口に出してください」
ナンシー「一緒に食事へ行きませんか、と誘うだけで十分です」
ナンシー「そう・・・・・・始まりはそれで十分」
ドミニク「ナンシーさんも、そうだったんですか?」
ナンシー「・・・・・・えぇ、夫がそう言って誘ってくれたのが始まりです」
ナンシー「不器用な人ですから、それが精一杯だったんでしょうけど・・・・・・」
ナンシー「その言葉を言う前に、何度か深呼吸をして、必死で気持ちを落ち着けようとしていたのを今でも覚えてます・・・・・・」
ドミニク「すみません・・・・・・」
ナンシー「どうして謝るの?」
ドミニク「それは・・・・・・」
ナンシー「夫が帰ってきてないから?」
ドミニク「・・・・・・はい。 もう戦争が終わって二年も経つんですよ」
ドミニク「なのに連絡一つ送られてこない」
ナンシーの髪を切る手が止まる・・・・・・
ナンシー「死んだって言いたいのね」
ナンシー「みんなと同じように、夫のことは忘れて前に進めって・・・・・・」
ドミニク「そうするべきだと思っています」
ナンシー「どこかで生きているかもしれない。 何かの理由があって、連絡が送れないだけかもしれない」
ナンシー「きっとそうに違いないわ・・・・・・」
ナンシー「ごめんなさい。手が止まってるわね・・・・・・」
ドミニク「いえ、手を止めるようなことを言ったのは僕です」
ナンシー「良いの、言われ慣れてるから・・・・・・」
ドミニク「前に進む気はないんですか?」
ナンシー「思う事はもちろんあるわ・・・・・・」
ナンシー「どこかで死んだかもしれないって、考えもよぎるのよ。一応ね・・・・・・」
ナンシー「現実は見なくちゃいけない・・・・・・ でも向き合うのは辛いわね」
ナンシー「頭ではそう考えても、心が否定するの」
ナンシー「あの人は死んでなんかいない。 私を置いて一人にするはずなんてないって」
ドミニク「・・・・・・ナンシーさん。 今度一緒に、僕と食事に行ってくれませんか?」
ナンシー「それは同情から、かしら・・・・・・」
ドミニク「いいえ、違います。 ナンシーさんが気になる人だからです」
ナンシー「ダメよ・・・・・・ 私はこれでも人妻だもの・・・・・・」
ドミニク「誰も気にはしませんよ」
ドミニク「もう二年も帰ってきてないんですから」
ドミニク「そろそろ諦めて前に進み始めても、周りだって納得します」
ナンシー「私が納得できないわ・・・・・・」
ドミニク「考えて頂けませんか?」
ドミニク「僕はナンシーさんのことが好きなんです」
ドミニク「だからここに通ってるんです。 少しでもナンシーさんの理想の男性像に近づきたくて」
ナンシー「髪型に、こだわりがないのは嘘だったんですね」
ドミニク「それは本当です。 本当にないんです」
ドミニク「でも、そう注文していたのは、ナンシーさんが似合うと思う髪になりたかった」
ナンシー「そう・・・・・・ 正直に言ってくれてありがとう、ドミニクさん」
ナンシー「・・・・・・私も秘密を打ち明けるわ」
ナンシー「私ね、人の顔が分からないの」
ドミニク「どういうことです?」
ナンシー「そのままの意味よ。 人の顔の違いが判別できないの」
ナンシー「私は、髪型を見て誰だかを検討つけてるの」
ナンシー「でも髪はその時のセットや、伸びたりするから、すぐに分からなくなる」
ドミニク「だから、人が待っていなくても来客名簿に名前を書かせてたんですね」
ナンシー「そうよ。お客様の顔が分からない人に切ってもらうのは不安になるでしょ?」
ドミニク「じゃあ、この髪型も僕の顔に似合うと思って切ってくれてたわけじゃないんですね・・・・・・」
ナンシー「えぇ、私には顔を見て判断できないから、夫と同じ髪型に仕上げてた」
ナンシー「どう、幻滅したでしょ?」
ナンシー「アナタが食事に誘いたいと思うような、素敵な女性はここにはいないのよ」
ドミニク「それでも構いません。 それをむしろ光栄に思います」
ナンシー「光栄だなんて・・・・・・ おかしいわよ、ドミニクさん・・・・・・」
ドミニク「少なくとも、僕に御主人の影を重ねておられた」
ドミニク「それは残念でもありますが、そのように見てくださってたことが嬉しいのです」
ドミニク「少なくとも、僕は嫌われているわけではなかったってことですから」
ドミニク「むしろ御主人の影を重ねるくらいに、僕のことを意識してくれていた」
ドミニクは鏡越しにナンシーを見つめながら手を伸ばし、彼女の手を優しく握る
ドミニクの行動に少し戸惑うが、ナンシーも優しく手を握り返す
ナンシー「私のどこに惹かれたの?」
ドミニク「容姿では憂い気のある瞳です。 それといつもご主人を待ち続けている健気さでしょうか」
ナンシー「どちらも夫がいなければ、私を好きにはなってくれなかったのね・・・・・・」
ドミニク「分かりません。僕がナンシーさんに出会った時には、もう御主人はいなかったので」
ナンシー「女性を喜ばせたかったり、悲しませたくなかったりするなら、少しは取り繕うモノよ」
ドミニク「すみません。 だから声を掛けられてもそれきりで、女性にはモテないんでしょうね・・・・・・」
ナンシー「でも正直に言ってくれる方が、私は嬉しいわ」
ナンシー「ねぇ、ドミニクさん。 アナタはどう思うかしら?」
ナンシー「夫は終戦しても2年間、帰って来ない」
ナンシー「生きているか死んでいるかも分からない」
ナンシー「子供はまだいないから、次へ行こうと思えば探せないことはない」
ナンシー「私に残されているのは、夫と共にやっていたこの理容店だけ・・・・・・」
ドミニク「捨ててしまったら良いじゃないですか」
ドミニク「残されたモノに縛られてるだけじゃ、これからの人生がもったいない」
ドミニク「ナンシーさんはまだ、若いんです。これからがあります」
ドミニク「生きてるなら、少しでも幸せに生きる権利があるはずです」
ナンシー「私はアナタよりずっと年上よ」
ドミニク「年齢なんて気にしていません。 僕にはナンシーさんが魅力的に見える」
ドミニク「それだけが大事なことです」
ナンシー「もっと素敵な女性は他にいるわ。 それに戦争のせいで男性は少ないのんですもの」
ナンシー「頼りになる男性を必要としている女性は多いわ」
ナンシー「ドミニクさんにもきっと良い人が見つかるはずです・・・・・・」
ナンシー「だから私なんて、選ぶべきじゃない」
ドミニク「僕では、頼りになりませんか?」
ナンシー「分からないわ。 私はドミニクさんのことを知っているようで、多くは知らない」
ドミニク「れからもっと知って頂きたいです。 だから、そのキカッケとして一度食事に行って下さいませんか?」
ナンシー「食事ね・・・・・・」
ナンシー「ドミニクさん、今日はお暇かしら?」
ドミニク「はい、なにも予定はありません」
ナンシー「だったらウチに来ませんか?」
ナンシー「たいしたものは用意できませんけど・・・・・・」
ドミニク「お邪魔して良いんですか?」
ナンシー「えぇ、いらっしゃってください。 歓迎しますわ」
ナンシーは髪を切り終えると、ヘアエプロンの上に落ちた髪を小さなホウキで払い、綺麗にしていく。
髪を払い終わると、ドミニクの首元で結んでいたヘアエプロンを緩め、取り外す。
鏡の横の棚に置いてある緑瓶を手に取り、整髪用の油をナンシーは自身の手の上に滴らせた
整髪用の油を、ドミニクの髪に優しく丁寧に馴染ませていく。
ツヤの出た髪をクシで梳くと、額の真ん中で左右に分けて整えていく
ナンシー「お似合いですわ」
ドミニク「ご主人の髪型にそっくりですか?」
ナンシー「えぇ・・・・・・」
ナンシー「あの人が出征する時に髪を切ってあげて、同じ油で髪をセットしてあげた」
ナンシー「その時のことを思い出すわ。 あれから、もう5年も経つのね」
ドミニク「もう良いころですよ。 少しづつ忘れていっても良いころです」
ナンシー「できるかしら、私にも・・・・・・」
ドミニク「もし忘れられなくても、僕を通してご主人を思い出してください」
ドミニク「僕は、ずっとこの髪型でいますから」
ナンシー「それは、アナタに悪いわ・・・・・・」
ドミニク「今はそれで良いと思っています」
ドミニク「今は、僕自身を見ていなかったとしても良いんです」
ドミニク「僕の望みはアナタと一緒に居たい」
ドミニク「少しづつ忘れさせてあげます。 後悔させる気はありませんよ」
ナンシー「ありがとうドミニクさん」
〇アパートのダイニング
ナンシーの家のテーブルに座るドミニク
たった今出来上がった食事を持ち、ナンシーがテーブルに運んでくる。
ナンシー「こんなものしか用意できないけど・・・・・・」
ドミニク「十分です。アナタと同じ時間を過ごせるだけで、僕にとっては嬉しいひと時です」
神に祈りを捧げ、食事を始めるナンシーとドミニク
ナンシー「どうかしら? お口に会うと宜しいのですけど」
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このラストは衝撃です……
相貌失認症が先天性のものではなく、戦争と夫の帰還に由来するものだと感じ、気持ちが怖さから心苦しさへのにシフトしました。戦争の無情さをひしひしと感じます。
驚きの展開でひきこまれました!
久々に文章読みながら鳥肌が立ちました・・。物語の結末、想像を絶しました。戦争により精神的被害にあった人は数多く存在すると思います。自分の夫がこういう姿で帰還したと思うと、彼女に少し同情する気持ちもあります。