逃走(脚本)
〇住宅街の道
タッタッタッタッタッ・・・・・・
浅葱明日香「っ、はぁっ、はぁっ・・・!!」
明日香は流れる涙を拭うこともなくただひたすらに走っていた。
込み上げる吐き気も、しにくい呼吸も、
全てを無視して。
浅葱明日香(なんで、なんで、 なんでなんでなんで・・・!!)
何故自分が、いつの間に、包丁を握りしめていたのか。
あそこで死んでいた『自分』は一体なんだったのか。
わかることなんて、何一つとしてなかった。
浅葱明日香「私は何もやってない・・・!!」
浅葱明日香「やってないのにっ・・・!!」
包丁を握っていることに気が付いたその時、明日香は
包丁で人間を刺し殺す時の手の感触を、
突然『思い出した』のである。
浅葱明日香(なんなの、この『記憶』っ・・・!! 私は・・・私はそんなこと、今まで一度だって、考えたことすらないのにっ!!)
何もわからないまま更けていく夜の中で、
ひとつだけ、明白なことがあった。
浅葱明日香(あのままあそこに居たら、私は捕まるか、 最悪、殺されていた・・・!!)
公安隊が到着すれば、状況的に考えて明日香が犯人だと思われるだろう。
運が良ければ話くらいは聞いてもらえるかもしれないが、現場判断でその場での死刑執行だって十分にありえた。
浅葱明日香(逃げなきゃ・・・!! っ、死にたく、ないっ・・・!!)
様々な思考が浮かんでは消え、同じところを回っては霧散する思考。
浅葱明日香「私は殺してない・・・!! 私は、死にたくないっ・・・!!」
その2つの思いだけが、明日香の崩れそうな心を支えていた。
あてもなく、夜の街を走っていく。
遠くで、サイレンの音が聞こえた。
〇ビルの裏
浅葱明日香「・・・・・・」
浅葱明日香(どれだけ走ったんだろう)
すっかり夜も更けて、もう最後に太陽を見たのが大昔のようにさえ思えてきた。
明日香は、静まり返った路地裏で
壁に背を預けて座り込んでいた。
浅葱明日香(もう、少しだって、動けない・・・)
走って、疲れて少し歩いて、
また走ってをただただ繰り返した。
就職活動のために履いていた、ちょっと背伸びをして買った大人っぽい靴も、おろしたばかりなのにもう傷だらけになっている。
浅葱明日香(・・・気に入ってたんだけどな)
明日香がたどり着いていたのは、追憶街の少し外れにある元繁華街だった。
浅葱明日香(・・・こんなところ、あったんだ)
この元繁華街は、一時は復興に向かっていたもののテラの能力・技術の発展に乗り遅れ再び廃れてしまった場所だった。
それ故に、後ろ暗いことのある人間や何らかの問題を抱える人間が集まりやすい。
暴力沙汰は日常茶飯事。
公安隊はこのような地域を関知こそすれ、民衆のガス抜きと称してこれを野放しにしている状態だ。
今も、明日香の潜む路地裏まで安酒に酔った人間の大きな笑い声や喧嘩の怒号が響いてきている。
浅葱明日香(なんでこんな所まで逃げてきたんだろう、私)
浅葱明日香(死ぬのはそりゃ嫌だけど・・・ でももう・・・)
浅葱明日香(もう、生きてても仕方なくない・・・?)
浅葱明日香(家族はみんな居なくなっちゃった)
浅葱明日香(私は誰も殺してない ・・・殺してないはずなのに、あの包丁が人を刺した感触を・・・知ってる)
浅葱明日香(私は・・・ 私は、誰も、殺してない・・・よね・・・?)
浅葱明日香「・・・っ、」
浅葱明日香(・・・こんな知らない場所も、実は私、 知ってるのかな・・・?)
浅葱明日香(・・・・・・)
浅葱明日香「はぁ・・・」
浅葱明日香「なんか、もう、疲れちゃった」
浅葱明日香「こんな場所まで逃げてきて、ばかみたい」
そっと目を閉じると、明日香は一気に疲労感に襲われた。
もうどうにでもなってしまえ、と
半ば投げやりで、
擦り減った意識を手放した。
壊れかけの室外機から吐き出される生暖かい風が、明日香を混濁の海へと引き摺り込んでいった。
〇黒背景
「・・・し、・・・・・・すか?」
「・・・・・・ぶ?ねぇ、・・・!?」
「ねぇ、君!! 大丈夫、身体、動かせる!?」
〇ビルの裏
月白雪乃「ねぇ、聞こえますか!?」
浅葱明日香「っ・・・!!」
意識を急激に引き上げられた明日香は、
突然の出来事にただ固まることしかできなかった。
月白雪乃「よかった、意識はあるね。 大丈夫? こんな時間にこんなところで、どうしたのかな?」
浅葱明日香「・・・っ、誰!?」
月白雪乃「あ、ごめんなさい!! 私、公安隊遊撃部第13班班長の、月白雪乃です」
柔和な笑みを浮かべて、公安手帳を提示する女性。
とても優しい穏やかな声に、思わず緩みかける明日香の涙腺。
月白雪乃「隣の地区で事件があったみたいで、パトロールしてたらあなたを見つけて・・・」
月白雪乃「・・・その服の血、あなたの? どこか怪我してる?大丈夫?」
浅葱明日香「!!」
浅葱明日香「これは・・・!!」
一気に緊張が走った。
口の中が乾き、次の言葉を紡げない。
月白雪乃の方はというと、どうやら明日香の次の言葉を待つようで、急かす素振りはない。
浅葱明日香「私、は・・・」
浅葱明日香(やってない? 本当に? あれは私?それとも他人?)
月白雪乃「ゆっくりでいいから、ね?」
そっと両手を包まれて初めて、自分の手が震えていることに気がつく。
浅葱明日香「・・・・・・」
目の奥に焼き付いた、『自分』の死体。
家族を殺したかも知れない包丁の、感触。
浅葱明日香(私はっ・・・!!)
浅葱明日香「私は・・・ 誰も、殺して、ないっ・・・!!」
悲鳴のように喉から絞り出したそれは、
もはや明日香の『願望』に近かった。
浅葱明日香「だから・・・ だから、私をっ、・・・ 私を、助けて・・・!!」
すがる思いだった。
公安隊の他の隊員に引き渡されてしまえば、もう助かる道はないだろう。
不本意な罪を着せられて、二度と自分の無実を完全に信じることもできないまま死を待つしかなくなるだろう。
本当はもう、生きることなんてどうでもよかった。
全部投げ捨ててしまいたかった。
それでも。
浅葱明日香「やっていないことをやったと言われて死にたくない!!」
浅葱明日香「私の家族を奪った奴が誰なのかを知りたい!!」
浅葱明日香「知って・・・」
浅葱明日香「知って、私は無実だって胸を張って!!」
浅葱明日香「それから死んだって遅くはないでしょう!?」
疲弊した身体を感情が突き抜けた。
酸素を出し切った肺は一気に冷たい空気を取り込み、刺されたような痛みを連れてきた。
上手く息が吸えない。
酸素を求めるのに、吸っても吸っても、全然呼吸が出来ない。
月白雪乃「────────!!」
月白雪乃が何かを叫んでいたが、もう何もわからなかった。
明日香は陸で溺れもがきながら、
月白雪乃が明日香のことを他の公安隊員へと引き渡さないことだけを、祈った。