渋谷に行きたい

momo0923

読切(脚本)

渋谷に行きたい

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〇電車の中
  「渋谷に行ってくる」
  それが、彼女の最後の言葉だった。
  
  短いメッセージが表示された携帯電話の液晶画面を再び見つめる。
  ごー、ごー、と響く不気味な音。
  車体を軋ませ、這うように走る電車の中、僕は薄暗い外の景色を眺める。
  何の助言も必要としていない淡々とした短い報告。いかにも彼女らしい。
  
  渋谷がどんな場所か知っているからこそ、か。
  『渋谷』ーその地名だけで、背筋が冷えていくような恐ろしさを感じる。
  けれど、もう引き返せない。
  その時、ガタン、と一際大きな音が響いた。
  思わず身体が跳ねた。
  渋谷に行く方法は色々ある。
  けれど、直通はできない。
  
  僕は電車を降り、地図のアプリを見ながら歩き出す。
  しばらく歩きつづける。
  どのくらい歩いただろうか。
  
  遠く向こうに、銀色の巨大なバリケードをみつけ、僕は小さく息を吐く。
  ついに来てしまったーー『渋谷』に。

〇高架下
  誰もいない。僕は深呼吸し、しんと静まり返った街をみやる。
  
  きっと彼女もこの道を行ったのだろう。
  身体に何の異常も見られないことに安堵する。
  とりあえず、よかった。
  僕は生きている。
  かつてここは、この国の文化の発信拠点として、栄華を誇っていたらしい。
  
  暗く澱む闇の中、懐中電灯を頼りに足を進める。
  僕の生まれるずっと以前のこの街の様子を、写真や映像で見たことがある。大型モニターを擁した塔が見下ろす、かの有名な交差点。
  そこには信じられない程の数の人間が写っていた。信号の明滅に合わせて、人間の集合体が広がり、うねり、どこかへ流れ消える様。
  実際に目にしたことはないけれど、かつて確かにあったはずの、この場所の日常に思いを馳せる。
  ーーあのたくさんの人たちは、みんなどこかでちゃんと生きているのだろうか?

〇SHIBUYA109
  きっかけは、何だったのだろう。
  今でも正確な情報はひょっとすると明らかになっていないのかもしれない。
  新種の病原菌の発現。
  恐ろしい感染力を備えたそれは、瞬く間にこの街の人たちを飲み込んでいった。
  気づいた時にはもう遅い。
  未曾有のパンデミックに、この街のみならず、一時は国中が大混乱に陥った。
  致死性の超強力な病を前に、なす術がなかった。
  ただ、時間の経過とともに、その病原菌には、菌としては致命的な欠陥ともいうべき奇妙な事実が証明された。
  俄には信じがたいことだが、獰猛なほどの感染力をもつその病原菌は、渋谷の街を出た途端、宿り主の中で死滅してしまうのである。
  つまり、渋谷にいかなければ、感染することはない、安全だ。
  この単純な事実に、人々は驚嘆するとともに安堵した。
  この街でしか生きられない、気の毒な病原菌に、街そのものを譲り渡すことで、政府は事態の解決を試みた。
  その病原菌による症状は、渋谷病、と名付けられた。
  誰かの陰謀だ、真っ赤な嘘だ、と渋谷を訪れる人は当初少なくはなかったらしい。
  
  そういう連中は、真っ先に感染し、死んだ。
  そして、渋谷は完全に閉ざされた。

〇渋谷のスクランブル交差点
  渋谷は、街としての機能を失い、事実上消滅した。
  長らくそう思われていた。
  
  ーそのはずだった。
  最近、まことしやかに囁かれ出した都市伝説。
  
  「渋谷病は、病原菌が変質し、感染しても死ななくなった」
  裏サイトでそんな話題が上ったが、すぐにガセネタだと笑われていた。
  
  けれど、彼女はその都市伝説に魅了されていた。
  「渋谷に行きたい」
  
  彼女はことあるごとに呟いた。
  
  馬鹿なことを言うな、とそのたびに僕は彼女を嗜めた。
  「もしそれが本当なら、素晴らしいことだと思わない?渋谷の街を独り占めよ?誰にも邪魔されずに、自分の好きなように」
  熱っぽく語る彼女は、生まれつき繊細すぎる心の持ち主だった。
  
  人と人とのやりとりに常に神経をすり減らし、塞ぎ込んでいた。
  「渋谷こそが、もしかしたら私の住む世界なのかもしれない」
  うっとりと呟く彼女の狂気じみた笑みに、僕は何も言えなかった。
  だから、仕方がないのだ。
  
  彼女がずっと憧れ、欲していた『渋谷』に行くことはもう僕には止められなかった。
  
  ーーけれど。
  僕は小さく嘆息し、見上げる。
  
  いつのまにか、この街の象徴ともいうべき、あの巨大なモニターの前にたどり着いていた。
  あちこちが錆び、蔦が絡まり、いかにも廃墟じみた様相を呈しはじめている109。
  
  僕は再び深く呼吸を繰り返す。
  僕の体のどこかに、既にあの病原菌たちは宿りはじめたのだろうか。
  でも、いい。
  だって僕は、今死んでいない。
  あの都市伝説は、本物だった。
  僕は実感する。
  
  彼女を探さなくては。
  僕は焦燥感に駆られた。
  空虚な闇だけをたたえ、巨大なモニターは存在感を失って建物にはりついている。
  
  彼女は、きっとこの近くにいる。
  僕は無人のスクランブル交差点の白黒模様を見るともなしにみやる。骸骨のようだ、と思った。
  
  もうすぐ雨が降り出しそうだ。

コメント

  • 渋谷でしか感染しない…となるとやっぱりみんな出ていきますよね。
    廃墟となると噂なども流れやすくなりますが、彼女はそれを聞いて渋谷に行って…その後が気になります。

  • 病原菌が嘘か本当か…。
    確かにその地へ足を踏み入れなければわからないことかもしれません。でも自分なら行きたくはないかなぁ…。
    でもその場所が大切な場所なら、行くかもしれません。

  • お話がいちばんいいところで終わったので、彼女はどこにいるんだろう、もしかしたら渋谷から帰りたくなくてどこかに住み着いているのではないか、など空想をめぐらせたくなるような余韻がありました。

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