読切(脚本)
〇黒背景
俺は元々自衛隊の通信科に属していた。
だが、1年前に交通事故に遭い、
今は病院で寝たきりの生活を送っている。
全身の感覚は消失し、指一本動かせない。
人工呼吸器のおかげで生きながらえている植物人間だ。
一般的な植物人間の意味合いと異なる点は、意識と聴力だけははっきりしているところだ。
だから、他人の会話も聞き取れるし、内容も理解できる。
音で誰が何をしているかある程度把握できるし、足音で人物も特定できる。
今、近づいているのは、妻「美香」の足音だ。
〇白
美香「今日はちょっと遅れちゃったわね」
気にしないでくれ。
君は仕事で忙しいんだから。
美香「今日は何か面白いこと、あった?」
そうだな。
看護士さんが、珍しく忘れ物をしていたよ。
美香「・・・」
美香「あなたが寝たきりになってから、もう1年になるわね」
美香「事故を起こした犯人は自首したけど、今でも許すことはできないわ」
君の気持ちは痛いほど理解しているよ。
俺だって同じだ。
美香「明日は・・・お別れの日ね」
美香「先生から最後の説明を受けてくる」
明日は俺の人工呼吸器が外される日だ。
ここ日本で安楽死は禁止されているが、延命治療の中止、いわゆる消極的尊厳死は認められている。
明日、人工呼吸器を外し、俺の自発呼吸が止まるのを自然に待つ、というものだ。
明日の運命を受け入れられるようになるまで、随分と時間がかかった。
初めてその話を耳にしたとき、俺は心の中で泣きじゃくった。
今でも、明日のことを考えると背筋が凍るような思いだ。
しかし、毎日見舞いに来てくれる妻を感じて、思ったのだ。
俺という鎖から、妻を解放してあげたい。
妻に新たな人生を与えてあげたい、と。
そう自分に言い聞かせて、ようやく未来を諦められるようになった。
せっかく諦めた、というのに──
そんな馬鹿な。
ありえない。
右手が。
右手の人差し指が──
ぴくりと動いたのだ。
〇白
それはほんの僅かな動きだった。
ベッドシーツも動かせないほど微細なものだったが、俺の人差し指は確実に動いていた。
美香「看護士さん。 入ってきても大丈夫ですよ」
看護士「お邪魔しないよう外で待っていたんですけど・・・」
美香「ありがとうございます。 気を遣わせてしまいましたね」
看護士「そろそろお時間ですけど、大丈夫ですか?」
美香「はい、お願いします」
待ってくれ!
頼む、俺の指に気づいてくれ!
俺は必死に人差し指を動かした。
しかし、シーツの下でいくらもがいても、妻も看護士も気づく気配はない。
シーツをはがしてくれ!
俺の手を握ってくれ!
すると──
妻が俺の右手を握ってくれた。
美香「それじゃあ、行ってくるね」
待ってくれ!
どうか気づいてくれ!
美香「え・・・」
美香「これって・・・」
そうだ!
俺の指は動いているんだ!
俺は思考を巡らせた。
どうすればいい?
どうすれば妻に事実を正しく伝えられる?
俺は自衛隊で習ったモールス信号を、妻の皮膚に打ってみせた。
ユビガ ウゴク
しかし。
美香「私、どうかしてるわね。 痙攣に決まってるのに」
自然な反応だった。
妻はモールス信号という言葉は知っていても、内容までは知らないのだから。
では、どうすれば?
俺は再び妻の皮膚を打った。
タタタン。
タタタン。
今度はリズミカルに。
一定のリズムで。
美香「これは痙攣なんかじゃない・・・ あなた・・・意識が?」
タンタン。
タンタン。
美香「意識があるのね!? 指が動かせるようになったのね!?」
そうだ!
俺は意識がある!
俺の指は動くようになったんだ!
だから、延命治療の中止をやめてくれ!
医師にそう伝えてくれ!
そう心の中で叫んだ直後。
〇赤(ダーク)
枯れ枝が折れるような音がした。
右手に激痛が走る。
久しく忘れていた「痛み」。
あまりに突然だったせいで、気を失いかけたほどだった。
だが、それ以上に衝撃だったことは──
指が、動かない。
人差し指が一切反応しなくなっている。
波打つ激痛だけが右手の周囲を走っている。
ふいに、耳元で妻が囁いた。
美香「困るのよ。 もう遺産相続の話は終わってるんだから」
まさか・・・折ったのか?
動かせるようになった俺の指を。
〇赤(ダーク)
美香「ちゃんと寝たきりかどうか毎日確認してたのに」
そんな・・・
君は俺を愛してくれていたんじゃなかったのか。
神様。
どうして、俺にこんな奇跡を起こしたのですか。
この奇跡がなければ、俺は希望を持つこともなかった。
ようやく受け入れた延命治療の中止を後悔することもなかった。
そして、妻の悪意を知ることなく旅立つことができた。
それなのに、あんまりではないか。
美香「最後に。 あなたに謝らなきゃいけないことがあるの」
美香「1年前。 苦しまずに逝かせてあげられなくてごめんなさい」
美香「でも、あいつがしくじるから悪いの。 恨むなら、あいつにしてね」
それだけ告げて、妻は静かに退室していった。
いまだ激痛が走る右手。
もう動かなくなった人差し指。
これは神様がくれた奇跡なんかじゃなかった。
より絶望を味わわせるための、悪魔の仕業だったのだ。
ドアの向こうから、妻の声が聞こえてくる。
『夫には心から感謝しています』
〇無機質な扉
扉が見える。
間もなく明日がやってくる。
・・・。
めちゃくちゃ怖い話じゃないですか…。
途中までは指が動くことに気付いて助かるものだとばかり思ってました…。
お金は命より重い…、感慨深いですね…。
怖い!女は怖い!夫が交通事故に遭ったのは、もしかして妻の策略かな。交通事故を起こした運転手に夫の殺しを依頼したんだと思っています。
意思表示ができない状態って、想像すると悲惨なものですね。静かにゾクリとくる物語です。絶望の底でのラストは本当に恐ろしい。