エピソード5(脚本)
〇黒
美智が出産した後、私はすぐに穂香を引き取った。
産後健診があるので、その度に穂香を美智の元へ連れていき、健診が終わったらまた連れて帰る──それを繰り返していた。
美智と密接に連絡を取り合って穂香の様子を伝えているので、
母子が離れて暮らしていることは今のところバレていない・・・らしい。
美智は美智でうまく振る舞っているのだと思う。
〇レトロ喫茶
──産後健診の日、私は美智とカフェで待ち合わせをしていた。
伊藤 さゆり「おつかれさま」
松本 美智「あ、うん・・・」
美智は大事そうに穂香を抱え、席に座る。
穂香は私の存在に気づき、「うー」とか「あー」と言いながら手を伸ばしてきた。
伊藤 さゆり(今の穂香は、私と美智のどちらを母親だと思っているんだろう)
自宅で面倒を見ているのは私だけど、美智とは産まれてから病院にいる間までずっと一緒にいた。
伊藤 さゆり(本能的に美智が本当の母だって分かっているのかな)
将来的には事実を話さないといけないのかも、などと考えていると、美智がおずおずと口を開いた。
松本 美智「家にいる間の穂香の様子、どう? 何か困っていることとかない?」
伊藤 さゆり「今のところは大丈夫だよ」
松本 美智「そう・・・」
美智と話していると、彼女が時折悲しそうな表情をするのは気づいていた。
恐らく穂香と離れるのが心苦しいのだろう。
でも、穂香は私の娘として育てると決めたから、渡さない。
それに穂香が私の元にいれば、この子を理由にして美智とも連絡を取り合える。
優しい美智のことだから、現状から逃げたくなっても私と穂香を蔑ろには出来ないだろう。
離れたくても離れられない。
それが私の、美智に対する報復だった。
伊藤 さゆり「それじゃあ、私たちはそろそろ帰るね また連絡する」
私は穂香をベビーカーに乗せ、美智を置いて帰宅した。
〇明るいリビング
数日後──
我が家では大体一番早く起きるのが私で、次に穂香、最後に雪也さんの順で目を覚ますことが多い。
穂香にミルクを飲ませた後に家事をしていると、出勤の支度を済ませた雪也さんがリビングに入ってきた。
伊藤 さゆり「おはよう、雪也さん」
佐野 雪也「おはよう ・・・穂香は?」
伊藤 さゆり「ミルクを飲んだらまた眠っちゃった」
雪也さんがベビーベッドの方を見る。
佐野 雪也「本当だ、よく寝てる」
彼は寝息を立てる穂香の顔を愛おしそうに眺めた後、鞄を掴んだ。
佐野 雪也「今日も帰りが少し遅くなるかも また連絡する」
伊藤 さゆり「はーい いってらっしゃい」
最近の雪也さんは残業続きだった。
伊藤 さゆり(仕事はカモフラージュで、本当は浮気してるかも)
などと考えた日もあったけれど、どうやら本当に仕事が忙しいようだ。
美智との一件が露呈してから、私は雪也さんの言動や行動に違和感があったらすぐに追及するようにしていた。
帰宅が遅くなれば彼が帰ってくるまで待っているし、必要であれば携帯の中身も確認する。
私の束縛に息苦しさを感じているはずだけど、離婚は切り出されない。
伊藤 さゆり(雪也さんなりに申し訳ないと思っているのかな・・・)
元々彼は浮気をするような性格ではなく、美智との件は本当に事故のようなものだったのだと思う。
伊藤 さゆり(信用が回復したわけじゃないけど・・・私はいつまで、雪也さんを疑っているんだろう)
転職したばかりの仕事で私以上に疲れているのに、家事にも育児にも関わってくれる。私が束縛しても文句の一つも言わない。
・・・少し、心苦しさはあった。
私は家事の手を止め、自らのつま先を見つめた。
伊藤 さゆり(裏切りに対する仕返しはしたい でも・・・二人を好きな気持ちは捨てきれない)
穂香のことについても、今はまだ誤魔化しが効いているけれど、将来的には難しくなってくるだろう。
伊藤 さゆり(このままでいいんだろうか・・・)
自分の中で良心と悪心がせめぎ合う。
伊藤 さゆり(自分の好きなようにしているはずなのに、もやもやする)
伊藤 さゆり(私はこれから、どうしたらいいんだろう・・・)
頭を抱えて後悔しても、過去に戻れるはずもない。
──その後何度悩んでも、結局答えにはたどり着けなかった。
〇明るいリビング
「あーう、あー!」
本日何度目かのミルクをあげた後、穂香はベビーベッドの上で機嫌良さそうに足をばたつかせていた。
伊藤 さゆり「どうしたの、穂香 遊びたいの?」
乳児の柔肌の感触を楽しんでいると、穂香は満腹になって満足したのか、次第にうとうとし始めた。
伊藤 さゆり(今眠ってくれたら、夕飯の準備ができるな)
不思議なことに穂香は夜泣きが少なく、お腹が空いた、おむつを変えてほしい等、目的がはっきりしている時だけぐずつく。
他人の子育て話を聞く限りもっと苦戦すると思っていたので、大して睡眠不足になっていない私は恵まれているのかもしれない。
伊藤 さゆり「穂香はいい子だね」
頭を撫でると、穂香は嬉しそうに目を細めた。
伊藤 さゆり「あ・・・」
私は思わず頭を撫でる手を止めた。
目を細めたその顔が──美智にそっくりだったのだ。
伊藤 さゆり(そりゃそうか、美智の子どもだし・・・)
伊藤 さゆり(雪也さんの血も入っているから、二人に似ていて当然・・・)
伊藤 さゆり(・・・それなら、私は?)
伊藤 さゆり(実の親から引き離して、親のフリをしてこの子を育てている私は、一体何なの)
急に息が苦しくなって、私はベビーベッドの柵を思い切り掴んだ。
一瞬ベッドが揺れたけれど、穂香はすやすやと眠っている。
伊藤 さゆり(この子は、私が産んだ子じゃないんだ・・・)
赤ん坊の寝顔を見つめ、改めて思う。
今までも理解していたはずの現実が色濃く突きつけられ、目眩がした。
伊藤 さゆり(この先もずっと、雪也さんを疑って、美智に辛い思いをさせて、穂香を騙して生きていくのか)
伊藤 さゆり(・・・それでいいのかな)
何度も自問自答したはずの考えが再び頭を巡って、苦しくて仕方ない。
まるで出口のない迷路に閉じ込められているようだ。
伊藤 さゆり(苦しい・・・)
私は新鮮な空気を求めるように、必死になって呼吸をした。